古道具屋の棚には、片方だけの燭台や、用途の分からない金具や、栓の欠けた瓶が置かれています。並んでいるのではなく、置かれている。この「並んでいない」という感触が、この語の中心にあります。焦点は数の多さではなく、多いものの間に秩序が見つからないことのほうにある。同じ点数の品でも、種類ごとに整理され、値札の向きまで揃った棚をそう呼ぶ人はいません。多さは条件のひとつにすぎず、決め手ではないのです。決め手は、見る側が分類の軸を一本も見つけられないことにあります。
「雑」の字は、もともと衣に関わる字で、色の違う布を合わせることを表したという説があります。混ぜ合わせるという原義から、純粋でない、主ではない、という含みが後から積み上がっていったと考えられています。その痕跡は、この字を含む語の分布によく残っています。雑談、雑用、雑務、雑草、雑木林——並べてみると、どれも「本筋ではないもの」を指す位置に落ち着いている。原義そのものには価値の上下が含まれていないのに、この字を持つ語はそろって本筋の外側へ落ちている。一字が、軽さの目印として働くようになったわけです。
音の側にも、層の違いが残っています。この字には呉音のゾウと漢音のザツという二つの読みがあり、語によってきれいに分かれる。雑巾、雑炊、雑木、雑煮はゾウで読み、雑談、雑務、雑音、そしてこの見出しの語はザツで読みます。前者が指すのは台所や庭先の事物で、混ざっていることが日常の事実として述べられているにすぎません。後者のほうには評価の目盛りが付いていて、本筋から外れているという含みが濃い。読みの差は、その語が日本語に入ってきた時期の差を映していると考えられています。同じ一字が、古い層では物の状態を、新しい層では価値の判定を引き受けた。二つの層が、いまも読み分けという形で並んで残っています。
複合の内訳としては「雑」と「多」の並列です。字面どおりに読めば、入り混じっていて、かつ多い。ところが現在の使われ方では、「多」の側の重みがかなり薄くなっています。三つか四つしかない品でも、互いに脈絡がなければこの語で言える。複合語の一方の成分が意味の焦点を譲り、全体の色に吸収されていく現象は、二字漢語にしばしば見られるものです。近い語域にある「まちまち」や「ばらばら」が、揃っていないことだけを言って多さを含まないのに対し、こちらは多さの記憶をわずかに残している。その残り方が、語の手触りを決めています。
悪化は現在も進んでいるように見えます。この字を一字で形容動詞に立てた「雑な仕事」「雑に扱う」という言い方は、もう混ざっていることとは関係がない。粗い、手を抜いている、敬意を欠いている——そちらへ完全に振れています。混合を言う語が、混合の結果である粗さを言い、さらに粗さを生む態度まで言うようになった。移動が二段ぶん進んだ勘定です。ところが二字のほうは、その最終段階には付いていっていない。雑な棚と言えば作りの粗い棚のことですが、雑多な棚と言えば、載っている物に脈絡がない棚のことになります。短い語形のほうが先に摩耗するというのは、よく指摘される傾向でもあります。二字の側は、後ろに付いた「多」が重しになって、混合という原義から離れきれずにいるのかもしれません。成分が一つ多いだけで、意味の移動速度が変わる。
一方で、近年はこの語に肯定の色がつく文脈も増えました。雑多な街、雑多な蔵書、雑多な経歴——いずれも褒めるために使われています。悪化した語が、特定の用法でだけ評価を回復することがある。回復の条件は単純で、秩序のなさを豊かさとして読み替えられる場面かどうかです。棚の話に戻れば、店主がその配置を選んで作ったと分かった瞬間、同じ棚が別の意味を帯びる。語の評価が、対象そのものではなく、対象の背後に意図を想定できるかどうかに依存しているわけです。
書く側にとって実際的なのは、これが判定の語であって描写の語ではない、という点です。「雑多な部屋」と書いても、読者の目には何も映りません。品物を三つ挙げて、その三つが互いに無関係であることが分かれば、語を使わずに同じ像が立ちます。そして来歴を知っていれば、地の文でこの語を選ぶことが、対象を軽く見る位置に語り手を置く行為でもあると分かる。視点人物が愛着を抱いている部屋をあえてそう書けば、そこにわずかな距離が生まれます。その距離は、語の歴史が無償で貸してくれる道具です。