「震えろ」と誰かに命じたところで、命じられた側にできることはありません。体を細かく揺らして見せることはできますが、それは演技であって、この動詞が指している現象ではない。形の上では命令形が問題なく作れるのに、発話として機能しない——この歪みが、この動詞の骨格を一番はっきり見せてくれます。意志で起こせない出来事を表す語だ、というだけのことなのですが、そこから枝分かれする性質が意外に多い。
まず、意志に関わる形式との相性が全般に悪い。「震えてみる」「震えようとする」「わざと震える」は、どれも成立させるのに文脈の助けが要ります。目的語も取りません。対応する他動詞は「震わす」「震わせる」で、こちらは目的語に身体の部分を取る。声を、肩を、指先を、机を。ところが人をまるごと目的語に置くと途端に座りが悪くなり、代わりに「身を竦ませる」のような別の言い方に逃げたくなる。他動詞化できる範囲が、身体の部分に偏っているわけです。
この自動詞と他動詞の対は、日本語の中では珍しくない形をしています。割れる/割る、倒れる/倒す、外れる/外すと同じく、語幹の後ろの部分を差し替えて自他を作り分ける仕組みで、覚えなくても新しい語に応用できるほど規則的です。加えて、自他の両方に使えた古い形が「震う」として残っている。現代語は自他を形で分ける方向に整理を進めてきたわけですが、その整理から漏れた古形が、文語調の文章や複合語の中に居座っている。
そこで「彼の声が震えた」と「彼は声を震わせた」を比べると、前者は出来事の報告に、後者は行為の記述に近づきます。ただし後者を意志的だと決めつけると足をすくわれる。「震わせた」は、結果としてその部分が震えている状態を作ったことを指すだけで、意志があったかどうかは文脈が決めます。他動詞にすれば主体の意図が入る、という対応は日本語では成り立たない場面が多い。ここは何度確かめても、きれいな規則にまとまってくれないところです。
主語の選び方にも幅があります。手が、肩が、声が、膝が、まつげが。部分を主語に立てられる動詞は多くありませんし、立てられる場合でも、どの部分を選ぶかで観察者との距離が決まります。膝や手は少し離れて見ている位置、まつげは相当に近い位置からでないと見えない。一方で人そのものを主語に置く言い方も可能で、その場合は部分の指定を放棄する代わりに、全身の出来事として読まれます。同じ動詞のまま、主語の粒度だけでカメラの寄りを変えられるわけです。
時間の側にも非対称があります。この現象は本来ある幅を持って続くもので、点として切り出しにくい。だから「震えている」は素直に読めるのに、「震えた」は一回の完了として受け取りにくく、どこまでが一回なのかが曖昧に残る。もっとも、これも例外を作れます。「びくりと震えた」なら瞬間として読める。副詞が動詞の時間の形を上書きしているわけで、時間構造は動詞の語彙だけでは決まっていなかった。
そうすると、書く側に返ってくるのは配分の問題です。地の文に「震えた」とだけ置けば、時間の幅も、原因も、意志の有無も未指定のまま残る。未指定は曖昧さとは違って、直後の一文が埋めることを前提にした空白です。埋める用意があるなら短く置いてよく、埋めないつもりなら、幅と原因を語形の中に持っている別の動詞に替えた方が早い。