送り仮名の表を眺めていて、一つの漢字がこれだけ多くの動詞を引き受けている例は珍しい、と思ったことがあります。「転ぶ」「転がる」「転げる」「転じる」。活用語尾を送るという原則だけでは切れ目が決まらず、慣用に頼っている箇所がある。表記の規則というものは、こういう場所で必ず妥協しています。そして妥協した箇所には、たいてい歴史が畳まれている。
旧字体は車偏を持っていました。もとの字義は車輪が回ること、向きが変わることで、人が地面に倒れる意味は日本語の訓として乗ったものです。訓のほうにも揺れがあり、古くは「まろぶ」の形が用いられ、「ころぶ」と長く併存したと説明されます。どちらが先かを断定できる材料は乏しいものの、二つの語形が同じ字を分け合っていた時期があったことは確かで、現在は片方が事実上退いた。語形の交代が、表記の上には痕跡をほとんど残していない例です。
この字の負担はまだ増えます。音読みも訓読みも複数あり、熟字訓として読ませる語まで抱えている。うたた寝を「転寝」と書く形はその一つで、字面から読みを推測することはほとんどできません。一字が引き受ける読みが増えるほど、書き手は表記の選択と同時に読みの誘導も考えることになる。ふりがなを振るかどうかの判断が、意味の判断より先に来る場面が出てくる。
引き受けているもののなかで、いちばん重いのは信仰に関わる用法だと思います。禁教下のキリシタン史で、棄教することを「転ぶ」と言った。転び伴天連、転びキリシタン。表記は身体の転倒とまったく同じです。倒れることと、信じるものを変えることが、一つの語で言われている。近代政治史の文脈で使われる「転向」も、字の上では同じ系譜に属します。
なぜ結びつくのかを字義から説明するのは簡単です。回転とは向きが変わることだから、立場が変わることも同じ字で言える。理屈は通ります。ただ、その説明で満足しかけたところで引っかかった。現代語の「ころぶ」に、向きの変化という含みはほとんど残っていないからです。日常の用法はほぼ物理的な転倒に限られている。含みが残っているのは、どちらに転ぶか分からない、という慣用句のなかだけです。語の中心的な意味からは摩耗して消え、決まり文句のなかにだけ化石のように保存されている。
だから表記の選択は、思っているより効きます。仮名遣いの変更をまたいでも形が動かなかった語なので、平仮名で書いても古びた印象は出ない。平仮名にすれば読者の意識は身体の動きに寄り、膝や掌の感触が前に出ます。漢字にすれば、事態が反転する含みがごく薄く立ち上がり、直後に来る展開への構えが生まれる——読者がそれを意識するかどうかとは別に、選ばれた表記は必ず何かを差し出しています。一つの作品のなかで理由なく揺らせば、読者はその差に意味を探し始める。探しても何も見つからないとき、失われるのは字面の統一ではなく、書き手への信用のほうです。