上代の日本語に「ゆら」という語形があり、玉や鈴が触れ合って立てる音を指したと考えられています。古い歌謡に「玉の緒もゆらに」といった言い方が見え、そこでは動きではなく音が問題になっている。この語源説を目にしてから、現代の用例を読む目つきが少し変わりました。いま使われている場面のどこにも、音は残っていないからです。ゆらゆらと立ちのぼる湯気にも、船縁の揺らぎにも、決意の揺らぎにも、聴覚の要素は見当たらない。
一族の語を並べると、移動の経路がおおまかに見えてきます。ゆらゆら、ゆらぐ、ゆれる、ゆする、ゆりかご。共通の語根から、自動詞と他動詞、擬態語と派生名詞が枝分かれしている。感覚の側では、聴覚から視覚と触覚へ移り、さらに心理へ入っていったことになる。感覚をまたぐ意味の転用は珍しい現象ではなく、味覚の語が性格の描写に使われる例などと同じ筋道です。ただしこの語の場合、移った先で音の記憶を完全に捨てたのかどうかが、はっきりしない。
引っかかるのは「ゆらゆら」の使用範囲です。この形は、いまも静かなものにしか当たりません。激しく振れる振り子や、地震で建物が大きく振れる場面には当てにくい。この静けさの制限を、微細な触れ合いの音だった時代の名残と読むことはできます。しかし擬態語の反復形は一般に穏やかさを帯びる傾向があり、この一例だけでは語源の残存とまでは言えません。証拠としては弱い。それでも、静かな揺れという条件がこれほど頑固に守られている語は多くない、という観察のほうは残ります。
比喩を作る側の形式にも、同じくらいの年月がかかっています。古い文語では「ごとし」が担っていた仕事を、中古以降に成立した「やうなり」が引き受け、それが口語の「ような」になった。「様」という名詞に断定の助動詞が付いた形に由来すると言われます。もとは有様・かたちを指す名詞だったものが、比喩の枠組みそのものになった。つまり動詞の側も比喩形式の側も、具体的な事物を指していた語が抽象の装置へ移っていく同じ経路をたどっている。二つの古い語が合流して一つの表現になっているわけで、そう見ると、この表現の据わりの良さにも理由があるように思えてきます。
比喩の形をとると、意味はもう一段抽象へ進みます。動きそのものではなく、動きに似た印象を指すようになる。ここで用法が二つに割れます。蝋燭の炎や水面のように、実際に揺れる物を持ち出して像を作る用法と、確かさを失った状態そのものに直接掛ける用法。前者は視覚の層で働き、後者は心理の層で働く。同じ形式なのに、読者の頭の中で起動する層が違います。両方を一つの段落に混ぜると像が二重になって、どちらも立たなくなる。
音から動きへ、動きから心情へ、心情から印象へ。この語は移動のたびに前の層を捨てずに薄く重ねてきたように見えます。だからでしょうか、直喩の対象に音の出るものを選んだとき——鈴、簾、風鈴、船の索具——この表現は不思議に据わりがよい。理屈としては、いちばん古い層に触れているからだと説明できます。ただ、そう説明できたところで書き手の得になるのは一点だけで、対象の選び方に迷ったら音のするほうを試してみる、という手順が一つ増えるにすぎません。それでも手順は手順です。