「かなしい」を漢字に直そうとすると、候補が一つに絞れません。悲しい、哀しい、愛しい——書き手はこの三択を毎回引き受けているのに、選び方の基準を持っていないことが多い。三つは同じ音を持ち、指している状態の中心もほとんど動きません。動くのは、読者がその字から受け取る温度と、書き手がどこまで意図的にやっているかという印象のほうです。
同じ音に複数の字が当たる例そのものは珍しくありませんが、たいていは意味の側が先に分かれています。あつい、と打てば暑い・熱い・厚いが並び、どれを選ぶかは対象が空気か物体か厚みかで決まる。かたい、なら堅い・固い・硬いで、中心の意味がわずかにずれていて、辞書もそのずれを記述できます。ところがこの語の三択は、どれを当てても指している状態がほぼ同じ場所に留まる。分岐しなかった同音異字、と言ってもいい。だから選択の根拠を意味の側に探しても、手がかりが返ってきません。書き手が変換の途中で毎回止まるのは、迷いが多いからではなく、迷いを解く材料が意味の側に置かれていないからです。しかも入力の側にも事情があって、かなを打って変換すれば候補は順に並んで出てくる。最初の一つをそのまま確定すれば、選んだという自覚さえ残りません。三択のうちの一つが、無選択の既定値として原稿に入り続けることになります。
古い日本語では、この語の担当範囲がもっと広くありました。「かなし」は、心が強く動かされて締めつけられる状態を指し、喪失の痛みにも、対象への深い愛情にも使われた。いとしい、かわいい、という方向の用法があり、そちらには「愛し」の字が当てられている。悲哀と愛情が同じ語形の内側に同居していたわけです。現代の三択は、一語が分かれていった跡だと考えると腑に落ちます。いま最も広く使われている字は、分裂したあとのいちばん大きな断片にすぎない。
三択のうち一つには、実用上の地雷が埋まっています。「愛しい」と書いた場合、読者はこれを「いとしい」とも読めてしまう。表外の読みを二つ抱えた字なので、文脈が支えないかぎり音が確定しません。声に出して読む機会のある作品——朗読、動画、音声化——を想定するなら、ルビを振るか、別の字に逃げるかの判断が要ります。表記の選択が読みの一意性を壊す例は、日本語でもそう多くない。ここは好みの問題ではなく、可読性の問題です。
残る二つの差は、見慣れなさの差として効きます。日々の文章でよく見かける字と、そうでない字とでは、同じ一語でも紙面での立ち上がり方が違う。見慣れないほうを選べば、その一語だけが行の中で浮き上がります。文学的な情緒を足したくて選ばれることの多い字ですが、目立つということは地の文の温度を上げる操作でもある。一作のなかで五回も六回も使えば、上げた温度のほうが既定値になり、上げた効果は消えます。表記で情緒を作るのは、原則として一度きりしか効かない手だと思っておくほうがいい。
四つめの選択肢として、字を当てないという道もあります。かなで開けば、三つの候補が担っていた差はいったん畳まれ、音だけが残る。幼い語り手の内語や、遠い記憶をたどる地の文では、この処理が効くことがあります。ただし代償があって、仮名が続くと語の切れ目を読者が探すことになる。前後の語まで開いていれば、一行のどこにも目の止まる場所がなくなります。開くかどうかは、その一語だけを見て決められない。前後三行の漢字の密度を眺めてから決める種類の判断です。音にして読まれる場合にも事情があって、開いた形は読みが一意に決まる代わりに、書き手がどの字を当てていたのかという情報を聞き手から取り上げます。表記で情緒を作る道が閉じる代わりに、誤読の余地も消える。得と損がきれいに裏返る選択肢が一つ用意されているのは、この語の扱いやすいところでもあります。
基準を作るなら、意味ではなく位置で決めるのが確実でしょう。地の文の要約では最も見慣れた字を使う。人物の内語や、作中に登場する手紙では、その人物が選びそうな字を使う。誰の言葉かによって字が変わるという規則にしておけば、読者はそれを無意識のうちに署名として受け取ります。逆に、地の文のなかで規則なく揺れると、意図した情緒ではなく変換ミスに見える。書かずに描写せよ、という助言はこの語について繰り返し言われますが、原稿の上で実際に発生している判断は、もっと手前にあります。置くか置かないか以前に、置くならどの字か。三つの候補は、その場面を誰の目で見ているのかを、書き手にもう一度確かめさせる装置でもある。