思う

【おもう】動詞

使い分けの視点

「感じる」は感覚や印象の発生、「察する」は証拠からの推測、「覚える」は心身に生じた感覚を文章語寄りに示します。「思う」は過程を省いて結論を置き、語り手を一歩外へ出す働きも持ちます。連発せず、視点を離す一点に配置します。

同義語

同品詞の類義語

感じる
察する文芸的
覚える

類義句

同品詞の慣用的言い換え

胸に抱く文芸的
胸に秘める文芸的
心に描く

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

心に浮かぶような文芸的
胸を過ぎるような文芸的
霧がかかるような文芸的

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

漠然と文芸的
しみじみと文芸的
ふとcolloquial

体言的言い換え

用言を体言に変換

感慨文芸的
念
想念文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

胸に迫る文芸的
瞼に浮かぶ文芸的
頭をよぎる

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

語り手が顔を出すエッセイ関連

例文: 「そう思った」の四文字で語り手が顔を出したとたん、英雄はひとりの少年に戻った。

語り手が顔を出す場所——削るのではなく配置する

「雨が降りそうだ、と彼は思った」。「空が低い。降る」。書いてある内容はほぼ同じなのに、読んだときのカメラの位置が違います。前者では、彼の頭の中を誰かが外から報告している。後者では、地の文がそのまま彼の判断を引き受けていて、報告者が見えない。この差を作っているのは末尾の四文字だけです。四文字で語りの階層が一段増える。英語圏の創作技法では、この種の語をフィルターと呼んで削減を勧める説明をよく見かけます。日本語の場合、事情はもう少し楽で、地の文と内的独白の境界がもともと緩い。主語を立てずに書けば、その文が誰の判断なのかは文脈が決めてくれます。だから省いても壊れない箇所が多く、実際に削ってみると文章の密度が上がることは少なくありません。ここまでは、よく言われるとおりです。

削った後に何が残るかを見ておくと、判断がしやすくなります。日本語の地の文には、内面を末尾の形式だけで示す道具がひととおり揃っている。〜のだろう、〜に違いない、〜らしい、〜はずだ。どれも人物の推量や納得を、報告者を立てないまま文へ溶かします。だから四文字を削っても、内面の描写そのものが減るわけではありません。減るのは、その判断が誰のものかを名指す表示のほうです。表示を外すと、地の文と人物の判断が同じ層に並び、読者は文の調子から持ち主を推し量ることになる。推し量らせてよい場面と、はっきり示しておきたい場面。この二種類を先に仕分けておけば、削除の判断はほとんど自動で決まります。

ただし、常に削るべきだという結論には進めない。密着した語りが長く続くと、読者は人物の内側に沈んでいきます。そこへ一度だけ「と思った」が入ると、水面から顔が出る。地の文が急に外側の視座を取り戻し、その人物が観察される対象に戻る。距離を調節する装置として、これは他に代えがきかない。問題は装置そのものではなく、装置が無自覚に何度も作動することです。一つの場面に三つ以上並ぶと、視点は落ち着き先を失って振動します。

隣の動詞と比べると、役割の輪郭がもう少しはっきりします。考えたと書けば、そこには時間が流れる。始まりがあり、途中があり、まだ終わっていない可能性もある。対してこちらは、結論だけを一点に置く動詞です。過程を持たないから場面の時間を進めない——だから連発すると、人物が何も考えていないのに判断だけを繰り返しているように読めてしまう。内面の描写を増やしたつもりで、内面の運動を削っている状態が起きる。「感じた」を並べるとまた別の位置が見えてきて、あちらは身体の側に寄り、判断の責任をほとんど負いません。

人称によっても、この四文字の値打ちは変わります。一人称の語りでは、地の文がすでに語り手の内面なので、末尾に付けても新しい情報がほとんど乗りません。むしろ、当たり前のことをいちいち断ってから話す癖として読まれてしまう。三人称では逆で、地の文の持ち主が確定していないぶん、この四文字が入るたびに帰属が更新されます。同じ回数でも、一人称では冗長に、三人称では有用に働く。一人称の原稿では思い切って落とし、三人称の原稿では場面ごとの上限を決める——このくらい粗い方針でも、読み心地はかなり変わります。例外は、あとから振り返る形の一人称です。そこでは当時そう思ったという時点の表示として働くので、削ると時間の層が潰れます。

会話文に入ると、まったく別の仕事をします。「それは違うと思います」の末尾は、思考の報告ではなく断定の弱化です。自信がないのか、相手への配慮なのか、責任を負いたくないのか——同じ形が三通りに読める。敬語と組み合わせれば距離の調整にもなり、思いますと存じますとでは、場面ごと入れ替わります。話者の性格を書き分ける材料として使えるということでもあります。地の文の基準でこれを機械的に減らすと、人物の口調まで一緒に均されてしまう。二つは同じ語形ですが、道具としては別物として扱ったほうがよい。

実務としては、削除の作業ではなく配置の作業になります。場面を書き始める前に、語り手がどこで顔を出すかを決めておく。人物の内側に沈めておきたい区間と、外から見せたい一点。その一点にだけ残し、あとは落とす。この順序で作ると、残った四文字は必ず何かをしている。逆に、書き上げてから機械的に検索して減らす手順では、たまたま残ったものと意図して残したものの区別が、書いた本人にもつかなくなる。

文: hakadoru.ai 編集部

エディタで直接置換して執筆を加速

SaaS エディタではシソーラスの結果をワンクリックで本文に反映できます

無料で始める →