起こる確率が一パーセント、起きたときの損失が百万円なら、掛け算して期待損失は一万円。保険料の設計なら、計算はここで終わります。期待値とは、起こりうる結果のそれぞれに確率の重みを掛けて足し合わせた平均のことで、不確実な未来をひとつの数に要約するための、最も基本的な道具です。ところが、人が何かを恐れるときの心の動きは、この掛け算をなぞりません。確率の小さい派手な災厄を実際以上に重く感じ、確率の高い地味な損失、つまり睡眠不足や運動不足が積み上げる類のものは軽く見る。恐れの強さは、期待損失に比例しないのです。
このずれを正面から扱ったのが、カーネマンとトヴェルスキーのプロスペクト理論でした。人は小さい確率を過大に重みづけ、同じ金額でも利得より損失を大きく感じる。実験で繰り返し確かめられてきた歪みで、宝くじと保険という正反対の商品に同じ人が同時にお金を払う理由も、この枠組みで説明されます。動詞としての「恐れる」が好んで取る目的語を眺めると、この理論と気味がいいほど噛み合う。人が強く恐れるのは、確率の高い緩やかな劣化ではなく、確率は低くても取り返しのつかない一撃です。「老いを恐れる」より「墜落を恐れる」の方が、動詞の座りがいい。日常の言葉づかいの中に、確率加重の歪みがそのまま刻印されているように見えます。
もうひとつ数学の言葉が役に立つのは、順序の話です。数直線の上の二つの数なら、必ずどちらかが大きいか、等しい——これを全順序と呼びます。しかし恐れの対象は、そうなっていない。高所と、人前での失敗と、親しい人を失うことは、それぞれ別の次元にあって、どれが一番怖いかと問われると答えに詰まります。比較できる対もあれば、比較のしようがない対もある。この構造を数学では半順序と呼びますが、恐れはまさにこの型で、一本の物差しには乗らず、いくつもの軸が絡む空間に散らばっている。すべての恐怖を一列に並べて即答できる人物がいたら、その整いすぎた内面のほうが不気味でしょう。
確率がゼロのものを人は恐れられるか、という問いもあります。幽霊は実在しないと確信している人が、深夜の墓地では足を速める。行動を決めているのは客観的な頻度ではなく、その人が内側で引き受けている主観確率です。主観確率は、口頭の宣言とは別に動く。口では「あり得ない」と言いながら、身体はゼロではない確率に賭けた行動を取っている。この宣言と行動の乖離は、理屈の上では矛盾でも、描写の上では人間そのものです。
こうして並べると、人物の恐れ方を設計することは、その人物に固有の確率の歪ませ方と、損失の重みづけを設計することだと言い換えられます。臆病な人物とは、あらゆる確率を一律に過大評価する人物ではありません。ある次元の損失——たとえば人からどう見られるか——だけを極端に重く見て、別の次元では平気で崖に近づく。歪みの向きが人物ごとに違うから、同じ危機を前にした複数の人物が別々の行動を取り、場面が立体になります。勇敢さも同じで、期待値の計算に忠実な人間が勇敢なのではない。何かを軽く見積もる歪みが、外から見たとき勇気の形をしているだけかもしれず、その見積もりの癖こそが、行動描写の一貫性を支える隠れた変数になります。