「その光景を思い浮かべたまえ」。この一文だけで、話者の年齢と職業と部屋の様子まで決まってしまいます。老いた学者か教師で、書斎にいて、相手は年下。一方、「彼女の顔を思い浮かべた」はほとんど誰の文でもありうる。動詞は同じで、変わったのは末尾の待遇形式だけです。ならばこの語自体は無色なのだと言いたくなりますが、無色という判定は本当に正しいのか。位相を持たない語などあるのか。そこを疑うところから始めます。
同じ心の働きを指す語を、使われる場所ごとに並べてみます。研究の文章なら表象であり心的イメージ。供述の記録なら想起した。日常の会話なら、頭に浮かんだ、顔がちらついた。日本語の文体位相はおおむね語種で層をなしていて、和語がくだけた側、漢語が硬い側、外来語がその両方を横断します。イメージするという言い方が学術にも雑談にも顔を出せるのは、この越境性のためでしょう。三層のどこに置かれた語かで、書き手の立ち位置がほぼ決まってしまう。
層の差は、依頼の形にすると露骨に出ます。読者に働きかける文で「ご想起ください」と書けば、読み手は身構える。同じ内容を和語の側に置き換えれば、力を抜いて読める。漢語には手続きの匂いがあり、相手に何かを求める場面では距離を作る方向に働く——講演で話す人がこの動詞を選び、判決文が別の語を選ぶのは、内容ではなく関係の設計の問題です。位相とは硬さの目盛りというより、話し手と聞き手のあいだに置かれる机の大きさに近い。
ここで態の話が絡んできます。浮かぶと浮かべる。日常の言い方は自動詞に寄ります。名前が浮かばない、顔が浮かんだ。想起は意志で完全に制御できるものではないので、自動詞のほうが経験に忠実です。ところが当の語は他動詞であり、しかも日常語として通用している。この組み合わせが引っかかる。制御できないはずの現象を、意志の形で言っている。
引っかかりを解くとすれば、この語が引き受けているのは努力の部分だけだ、という見方になります。浮かべようとする作業には主体がいるが、浮かぶかどうかはその外にある。だから「思い浮かべたが、何も浮かばなかった」という文が矛盾なく成立する。他動詞でありながら、結果を保証しない。似た構造は、探す、聞く、狙うといった語にもありますが、対象が自分の内側にある点でこの語は特殊です。自分の中を相手にして、それでも思いどおりにならない。
方言の側にこの語の変異形をほとんど聞かないのは、経験的な印象にすぎず、確かなことは言えません。ただ、内面の作業を表す語彙が書き言葉から降りてきた可能性は考えてよいと思います。もしそうなら、無色に見えていたのは出身地が無いからではなく、出身地が文章語だからだということになる。硬くもくだけてもいない中間の層に語りを固定する働きがあり、地の文に置けば「文章を書く習慣のある人」の語りになる。荒っぽい一人称の地の文にこれが紛れ込むと、その一行だけ別人が代筆したように見えるのは、そのためでしょう。