射る

【いる】動詞

使い分けの視点

「射る」は狙いと方向を含みますが、命中までは保証しません。「射抜く」は貫通、「矢を放つ」は身体動作、「発射する」「射撃する」は装置や軍事の説明へ寄ります。比喩では、誰が射手で誰が動かない的に置かれるかを意識します。

同義語

同品詞の類義語

射抜く文芸的
発射する
射撃する文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

矢を放つ文芸的
弓を引く文芸的
的に向ける

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

鷹が獲物を狙うような文芸的
弦音を響かすような文芸的
光が走るような文芸的

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

鋭く
静かに文芸的
一心に文芸的

体言的言い換え

用言を体言に変換

射撃文芸的
一矢文芸的
弓矢

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

弓弦を鳴らして放つ文芸的
狙いを定めて放つ
矢を的に届かせる

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

狙いだけを含む動詞エッセイ関連

例文: 外れ矢にも使える「射る」は狙いだけを含む動詞で、命中の責任を後続の描写へ残した。

当たったかどうかは、この動詞の管轄外

縁日の射的では、たいてい何も倒れません。コルクの弾が景品の箱に当たって跳ね、棚がわずかに揺れて、店主が無言で弾を並べ直す。それでも撃った側は帰り道に「射的をやってきた」と言うし、聞いた側も嘘だとは思わない。同じ通りに並ぶ屋台の名を見渡すと、金魚すくい、輪投げ、型抜き——名前はどれも動作を指していて、成否はその外側に置かれています。遊びの名づけは、結果を勘定に入れていない。ただ、これを商売の都合として片付けてしまうと、見落とすものがあります。名前が動作だけを指すという性質は、遊戯の看板よりずっと深いところ、動詞そのものの作りに根を持っているからです。

「的を射る」と「的を得る」のどちらが正しいか、という議論は長く続いてきました。後者は誤用とされてきましたが、近年は「当を得る」との混同ではなく独自に成立したとする擁護もあり、辞書の扱いも一様ではありません。判定そのものは専門家に任せるとして、この論争を眺めていて引っかかるのは別のところです。どちらの陣営も、この動詞が的に当たることを含意するかどうかを争点にしている。射るという行為の核心は結果にある、と暗黙に前提されている。その前提のほうが、たぶん怪しい。

矢を放って外した人も、射たとは言えます。動詞そのものは結果を保証しない。保証しているのは、狙いがあったこと、方向が定められていたことのほうです。結果まで言いたいときには、日本語は後ろにもう一つ動詞を足す。射当てる、射落とす——当たったこと、落ちたことは、後半の要素が来て初めて確定します。単独形が結果を含まないからこそ、この一群が要るのだと考えるほうが、順序としては自然でしょう。この非対称は、比喩に転じたときに前面へ出てきます。「その一言が私を射た」と書けば、言葉が届いた事実より先に、言葉に狙いがあったことが伝わる。当否は語の外側にあり、意図は語の内側にある。

含みはもう一つあって、射られた側は的の位置に置かれます。「目が合った」なら双方向で、責任はどちらにもない。射られたと書いた瞬間、視線に送り手と受け手が生まれ、受け手は動かないものとして扱われる。的は逃げないという前提が、構文ごと持ち込まれるのです。恋情の場面でこの語が好まれてきたのは、おそらくこの受動性のせいでしょう。選んだのではなく狙われたのだ、という言い方をすれば、関係の始まりを相手の側に置いたまま話を進められる。語が担っているのは情景ではなく、責任の配分です。

評価の場面へ移すと、この配置はさらにはっきり見えます。「的を射た指摘」という褒め方は、相手の発言を的の位置に据え、自分をそれを見定める側に置くところから成り立っている。称賛でありながら、上下が一段できてしまう。目上の人の意見に対しては使いにくく、後輩の意見に対してなら使いやすい。丁寧語を重ねても、この傾きは消えません。言い方をどれだけ和らげても、的を置いたのはこちら側だという事実のほうは動かないからです。ほめ言葉の一部は、評価者の椅子を一脚こしらえたうえで発せられている。会議の記録を読み返すと、この言い方が出てくる位置にはかなりの規則性があるはずです。

ここで反証を一つ置きます。表記の上でだけ同じ字を使う「日が射す」には、狙いがありません。差し込む光に意図を読む人はいない。同じ字を共有していても、自動詞として使われるかぎり、その光には送り手が立ちません。つまり意図の含みは語幹に貼りついているのではなく、他動詞として誰かを目的語に取る構文のほうが生んでいる。この動詞が意図を運ぶのではなく、AがBを射るという形が意図を運ぶ。語彙の性質だと思っていたものが、構文の性質だったことになります。だとすれば、同じ含みは別の動詞でも作れるはずで、実際、狙いを持たないはずの動詞に人を目的語として与えると、そこに意図が湧いてくる。

もう一つ、この語は日常会話にほとんど出てきません。弓を扱う人以外が口にする機会はまずなく、書き言葉の側へ寄っている。だから台詞に混ぜれば人物の教養か気取りが立ち上がり、地の文に置けば語りの階層が一段上がる。比喩としては使い古された表現ですが、手垢を落とす場所はまだ残っていて、たとえば目的語を人から場所へずらす、狙いの主体を人から状況へ移す、といった操作で、構文が運んでいた意図の含みだけを保つことができます。陳腐さは語そのものより、語と目的語の組み合わせのほうにありました。

文: hakadoru.ai 編集部

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