雑草という名の草はない、という趣旨の一言は、植物学者のものとしても、昭和天皇のものとしても伝わっています。どちらが本当かを確かめようとして、まず気づくのは帰属が揺れていること自体でした。出所を問わずに流通する形をしている。誰の言葉でも成り立つ命題というのは、たいてい、言葉というより態度の表明です。そしてこの態度は、そのまま今回の句の裏側にあたります。
植物学の側から見れば、この句が名指しているものは存在しません。地球上のあらゆる植物に学名があり、道端の草にも和名がついている。名がないのは花の属性ではなく、見ている側の知識の欠落です。とすると、この句は花を描写しているように見えて、実際には語り手の自己申告になっている。文学的な効きどころもたぶんそこにあって、この五文字を置いた瞬間に、都会から来たのか、植物に暗いのか、そもそも名を問う関心を持たない人物なのか——語り手の輪郭が一句で決まってしまう。花のほうは、ほとんど何も描かれていません。
形のほうも見ておきます。「なき」は文語の連体形で、現代語なら「ない」になるところです。言文一致以降、地の文はおおむね口語へ移りましたが、詩歌や慣用句のなかには文語形が化石のように残った。この句もその一つで、現代の文章に置くと、そこだけ時代が数十年ずれます。古風な情緒と呼ばれているものの実体は、この段差でしょう。ただし段差は繰り返すと段差でなくなる。同じ原稿に文語の残存形をいくつも散らすと、読者は個々のずれを感じなくなり、代わりに書き手の癖として受け取ります。
細部にもう一つ、働いている部品があります。同じ内容なら「名の無い花」でも言えるはずなのに、定着したのは「も」を挟んだ形のほうでした。この助詞は、他にも欠けているものがあることを背後にほのめかします。名すら無い、という含みが生じ、花は美しさや香りではなく、欠如の側から描かれることになる。詩の言葉として残ったのは、文語形だからというより、この一音が付け足す含みのせいかもしれません。置き換えて読み比べると、「の」にした途端に句が事実の報告へ落ちます。
では避けるべきなのか。ここは即断できません。化石であることが機能する場合があるからです。語り手が古い書物を読み慣れた人物なら、この語法は人物の言語習慣として正当化される。手紙の文体を模した章、老人の回想、祈りに近い独白——そういう文脈では、口語形に直したほうがかえって崩れます。問題は化石を使うことではなく、化石を化石と知らずに使うことのほうにありそうです。
書く前に一つだけ分けておくと迷いが減ります。名前を知らないことを書きたいのか、名前を問わない態度を書きたいのか。前者なら「名前を知らない花」で足りるし、そのほうが人物の無知が具体的に立ちます。後者、つまり名を知る必要を感じていない視線を書きたいのであれば、この句にしか出せない響きがある。両者を区別しないまま置くと、語り手が知らないのか、知っていて呼ばないのかが宙に浮く。花の名は失われても構いませんが、語り手の位置まで一緒に霞むと、その段落は誰の目でもなくなります。