「私は無邪気です」と書いた瞬間に、その文は成り立たなくなります。文法上の破綻はどこにもありません。ナ形容詞に丁寧の助動詞がついているだけで、活用も語順も正しい。にもかかわらず、この文を口にできる話者はいない。似た形の「私は素直です」なら、就職の面接でくらいは言える気がします。両者の差はどこから来るのか。ここで一度立ち止まっておきたい。自分で申告した途端に内容が裏切られる語というのは、日本語にそう多くないからです。
語の作りのほうを先に見ておきます。漢語の打ち消しの接頭辞にはいくつか種類があります。不は評価としての否定、未は時間的な未達、非は範疇の外へ出すこと、そして無は存在そのものを消す仕事を担うのが原則です。この語が使っているのは最後の型で、字面のうえでは邪気がゼロだと述べている。ところが実際には程度副詞を取ります。かなり無邪気、たいそう無邪気。有るか無いかの二値であるはずのところに、目盛りが付いている。しかも肯定側の相手がいません。有邪気という語は存在せず、邪気そのものも、いまでは限られた言い回しのなかにしか残っていない。否定形のほうだけが独立して生き延び、消えたはずの相手を尺度として引きずり続けている語だということになります。
手がかりは人称の偏りにありそうです。この種の形容詞は、話し手が自分以外を観察して下す評価であって、自分の内面を報告する語ではない——だから一人称主語と嚙み合わない。用例を思い浮かべても、主語は子どもや動物、あるいは年若い人物に集中します。つまりこの語は、対象を自分より下の位置に置く視線と一緒に動いている。ただし、ここで自分の観察に異議を唱えておきます。「屈託なく笑った」であれば、自分を描く文としても書ける。とすると問題は人称そのものではなく、性質を名指すか、振る舞いを描くかの差ではないか。性質を名指す語は、名指す側の位置を必ず露出させます。
この見立てを確かめる手続きが、文法の側に用意されています。内的な感情を表す形容詞は、主語が三人称になるとそのままでは述語に立てません。嬉しい、寂しい、痛い。他人について述べるには、がるを付けるか、ようだ、らしいを添えるかしなければならない。話し手には他人の内側が見えないという事情が、そのまま規則の形になっているわけです。ところがこの語には、その手続きが要りません。あの子は無邪気だ、と、何も添えずに書ける。がるを付けた形にいたっては、そもそも成立しない。内側を報告する語ではなく、外から観察した属性を述べる語だから、他人について直接述べられる。見当をつけていたことが、活用の制限という別の面から裏づけられます。
連用形を見ると、別の顔が出てきます。ナ形容詞は「に」で副詞になる。共起する動詞を並べると、笑う、尋ねる、はしゃぐ、信じる——ここまでは予想の範囲です。ところが「無邪気に人を傷つける」も、日本語として何の抵抗もなく通ってしまう。この結合が語の内側を露出させます。含意されているのは善良さではなく、結果への計算がないことだった。だから加害と結びついてもねじれない。純真や天真爛漫では、この結合はもう少し軋みます。副詞形は語の中心にあるものだけを取り出して動詞へ渡すので、褒め言葉として使っているうちは見えなかった部分が、こういう場面で表に出てきます。
名詞化のふるまいも一貫しています。語幹に「さ」がついて「無邪気さが残っている」のような量的な言い方になる一方、「み」はつかない。甘み、赤み、丸みの「み」は、感じる側の手触りを表す接尾辞だと説明されることが多い。対して「さ」は、外から測られた属性の量に向きます。実際、甘みや丸みが舌や手の側の経験を指すのに対して、高さや長さは対象そのものに帰属する量です。この語が「さ」しか取らないのは、それが感触ではなく観察された属性だからでしょう。人称の偏りも、副詞形の意外な共起も、名詞化の非対称も、同じ一点——外から見ている者がいる——に収束していきます。
だとすれば、小説でこの語を置くときに決まるのは、対象の性格ではありません。語り手の立ち位置です。誰かをそう呼んだ地の文は、その人物を無防備な側に置き、語り手を測る側に置く。三人称の語りでそれをやれば距離が生まれ、一人称の語り手が恋人に対して使えば、そこに保護者めいた響きが混じる。混じることが悪いのではなく、混じっているのに気づかずに使うと、語り手の位置が勝手に決まってしまう。この語は、描かれる側より描く側を照らします。