褒め言葉のなかには、本人に向けて言った瞬間に失敗するものがあります。この語もそのひとつで、目の前の相手に「あなたは無垢な人ですね」と言うと、たいてい場が固くなる。意味の上では否定的な成分は含まれていません。それでも受け取った側は、褒められたというより、値踏みされたと感じる。三人称で語るときや、過去を振り返るときには問題なく使えるのに、二人称になると壊れる——この非対称は、語の意味ではなく、語の使われ方の側にあります。
理由は、この語が話し手の位置を勝手に決めてしまうところにあります。誰かをそう評するには、評する側が汚れを知っていなければならない。判定は非対称で、判定する者とされる者のあいだに高低ができます。褒め言葉の多くは相手を持ち上げることで話し手を下げますが、この語は相手を持ち上げながら話し手を上に置く。丁寧さの計算が合わなくなるのはそのためで、聞き手は褒められたことと見下されたことを同時に処理させられます。処理できないので、笑ってごまかすしかない。
もうひとつ、背景に呼び出されるものがあります。「〜がない」と述べる文は、その〜が期待されうる文脈を前提として立ち上げる。机の上に象がいない、とわざわざ言えば、象がいるかもしれない状況が背後に生まれます。この語も同じ構造を持っていて、汚れがないと言った時点で、汚れうるものとして相手を舞台に載せている。前提は否定してもふつう消えません。「あの人は無垢ではない」と言っても、汚れの尺度で測られていること自体は残ります。褒めても貶しても、尺度だけが居座る。
一人称にすると、失敗はもっと徹底します。「私は無垢です」と述べた文は、内容が正しいかどうか以前に、述べたこと自体で内容を壊す。自分の状態を客観的に測って報告するという構えが、すでに測られる側の性質と両立しないからです。似た現象は、謙虚だ、素朴だ、といった評価語にも起きます。他人が言えば成立し、本人が言うと成立しない述語の一群がある。この一群に共通するのは、その性質が「自覚していないこと」を条件に含んでいる点でしょう。だから作中で誰かにこれを自称させれば、それだけで人物の信頼度を下げられます。
位相の問題も無視できません。もとは仏教の語で、煩悩の汚れを離れた状態を指す使われ方をしてきました。婚礼の衣装の名にも残っています。宗教語と儀礼語の層を抱えているため、日常会話に持ち出すと格が高すぎて浮く。この浮きは欠点というより、使いどころの指定です。日常の雑談では滑るが、儀礼の場面や、語り手が意識的に文語寄りの語彙を選んでいる文脈では収まる。語彙の格が場面の格と合っているかどうかは、意味の正しさとは別に判定されます。
小説で使うとき、いちばん確かな効き方は、対象ではなく話し手を描いてしまうところにあります。この語を選んだ人物は、その瞬間に、自分が何を失ったかを申告している。だから地の文で語り手が使えば、語り手の年齢と立ち位置が読者に伝わる。若い人物の一人称でこれが出てくると違和感が生じるのは、その申告と人物の履歴が合わないからです。相手を描写する語のふりをして、実際には話し手の座標を出力している。そう見ておくと、置く場所はかなり絞り込めます。