「少女は健気に微笑んだ」と書いて、その一行を消したことがあります。文法はどこも壊れていない。場面にも合っている。それでも指が戻って、一文をまるごと削っていました。なぜ削りたくなったのか、そのときは言葉にできませんでした。
しばらく置いてから見当がついたのは、これが本人の口からは決して出ない種類の評価だ、ということです。微笑んでいる当人は、自分の微笑みをそう呼べない。呼んだ瞬間に自嘲か厚かましさに転ぶ。つまりその一文には、少女のほかにもう一人、少女を見て採点している人物がいたことになります。採点者を出す用意がないまま評価語だけを置いたので、宙に浮いた。削りたくなったのは、その浮きを指が先に察したからでした。
ここで自分に反論しておきます。外からしか付けられない評価なら、ほかにもある。「立派」も「偉い」も同じ構造を持っている。だとすれば、この語に固有の何かはどこにあるのか。並べて比べてみると、差は測っている量にありました。「立派」が成果の水準を測るのに対して、こちらは釣り合いを測っている。小さいもの、弱いもの、幼いものが、それに見合わない大きさの負荷を引き受けている——その落差そのものが評価の対象になる。だから力の非対称が読者に見えていなければ作動しません。年齢も体格も立場も知らされていない人物が「健気に」何かをしても、読者の手元には比の分母がない。空回りの正体はそれでした。
もうひとつ、遅れて気づいたことがあります。この評価は一瞬の所作には付きにくい。一度だけ我慢した人より、毎日我慢している人に付く。反復の含みを持っているのです。裏を返せば、初出の場面でいきなり使うと効きが悪い。読者が「今日も」を補える段階まで待つ必要がある。語源については複数の説があって由来を一つに定めるのは難しいようですが、少なくとも現代の使われ方は、時間の厚みと力の落差という二つの条件をそろえて要求します。条件つきの語だと分かってしまえば、扱いはかえって楽になります。
実務に落とすと、選択肢は二つに絞られました。ひとつは語を出さないこと。皿を割った子どもが、叱られる前に破片を拾い始める。その手つきだけを書いて、評価は書かない。読者が勝手に採点します。採点したのが読者自身であるぶん、その評価は消えにくく残る。もうひとつは、あえて出すこと。ただしその場合に書かれているのは対象ではなく、視点人物のほうです。誰かをそう評価してしまった人間が、そこにいる。相手を一段下に置いたという事実が、褒め言葉の形で残る。
陳腐化についても、原因は同じところにありました。この語は「〜に微笑む」「〜に振る舞う」といったごく少数の相手と結びついて固まりやすい。固まった句は意味を運ばず、雰囲気だけを運びます。ほどく方法として確実なのは、行動と評価のあいだに一拍の距離を置くことです。動作を書き、視点人物がしばらく黙り、それから評価が漏れる。順序を変えるだけで、同じ語がもう一度重さを取り戻します。