「暢」の音読みはチョウで、流暢の暢です。「呑」はドンで、呑舟の呑。どちらも「のん」とは読みません。それでも、のんき という和語には暢気・呑気・暖気という三通りの漢字表記が伝わっていて、いずれも当て字とされます。語源については漢語の「暖気」が変化したものだという説がありますが、決着した話ではありません。加えて「暢」も「呑」も常用漢字表に入っていないため、公用文や新聞では仮名書きになります。読みからも制度からも支えを受けていない表記が二つ並んでいる、という珍しい状態です。選択の根拠は像しかありません。
その像が正反対を向いているところが面白いところで、「暢」はまっすぐ伸びること、「呑」は呑み込むことを表します。伸びやかさを見るか、呑み込んで動じない鈍さを見るか。同じ気質に、逆向きの絵が当てられている。おまけに呑気の側には別読みとの衝突があって、空気を飲み込んでしまう症状を指す医学用語の「呑気症」は、どんきしょう(のんきしょう とも)と読みます。暢気の綴りにこの衝突はない。現在の一般的な表記としては呑気のほうがよく見かけますが、優劣が決した経緯を断定する材料は手元にありません。
字面の話を離れて統語のふるまいを見ると、この語がどんな種類の語なのかは、二つの検査で確かめられます。一つめは連用形+「にも」です。「暢気にも彼は昼寝をしていた」は自然に通る。同じ枠に入るのは「愚かにも」「幸いにも」「不覚にも」といった顔ぶれで、どれも出来事を外から採点する語です。純粋に動作の様子を述べる語はこの枠に入れず、「滑らかにも」「急激にも」とは言えません。「にも」が取れるという一事で、この語が様態ではなく判定を担っていることが分かります。副詞用法の共起も同じ線で割れていて、「のんきに構える」「のんきに待つ」は通るのに「のんきに走る」は妙になる。走る速さを述べる語ではなく、走っている当人の心の構えを述べる語だからです。
二つめは接辞の可否です。「暢気そうな顔」は何の問題もないのに、「暢気がる」はまず耳にしません。ここで理由を「外からの視点を含む語だから」と説明すると外れます。面白がる、珍しがる、うるさがる、不思議がる——どれも外からの判断を含みながら、問題なく成立するからです。並べてみると共通点は別のところにあって、主語がその感じを抱いている当人であり、感じられる対象が必ず用意されている。何かを面白がり、何かを珍しがる。ところがこの語には対象の欄がなく、当人の内側で起きている感覚でもない。「がる」が外へ押し出すべき中身が、そもそも存在しないわけです。
掛かる名詞の範囲も、同じ結論を指します。性格、返事、暮らし、構えには自然に掛かるのに、「暢気な制度」は落ち着かない。制度そのものは心の構えを持たないからで、作り手のほうへ測る先を一段戻してやれば自然に通ります。この語を地の文に置けば、測っている誰かが一人生まれる——そこまでは他の評価語と共通です。この語に固有なのは、目盛りがもう一つあること。暢の字を選べば伸びやかさが前に出て、呑の字を選べば呑み込む鈍さが混じり、仮名で書けばどちらの絵も立ちません。文法が「誰が測ったか」を決め、表記が「どのくらい厳しく測ったか」を決めます。