「今日はいい陽気ですね」と言われて、気温は何度ですかと聞き返す人はいません。この挨拶が指しているのは測れる量ではなく、上着を腕にかけたくなるような、体のほうが先にゆるむ感じです。ところが同じ語は人にも使われます。陽気な人、陽気な酒、陽気な音楽。天候と気質が一語で結ばれている。ここで少し引っかかります。日本語で空模様と人柄を同じ語で言えるものは、そう多くない。「明るい」がかろうじて並びますが、あれはもともと光の語で、後から人に移ったものです。「湿っぽい」も両方に使えますが、あれは天候の側から情の側へ比喩が伸びた形で、どちらが本家かがはっきりしている。「陽気」はそこが曖昧なままです。
陰陽という枠組みを思い出すと、この同居は転用ではなかったと分かります。天地に満ちる二つの気があり、その配分で季節も体調も気分も決まるという自然哲学のなかでは、空の状態と人の状態は同じ台帳に記載される項目でした。実際、この「気」という一字は、気候・気分・気質・気配・気力と、外界と内界の両方に散らばっています。散らばったのではなく、もとから区別がなかったと考えるほうが筋が通る。今日の陽気と陽気な男は、比喩でつながっているのではなく、同じものが別の場所に現れている——少なくとも、この語彙を作った側の世界観ではそうです。
その台帳が組み替えられたのが近代です。測候所が置かれ、気温と気圧と湿度という数量で天候が記述されるようになると、気の配分という説明は観測の言葉から外れていきます。予報の文言は「晴れ」「曇り」「所により雨」といった規格化された語に整理され、そこに「陽気」が入る余地はありません。予報は数量と確率で話す。ただ、この語は追い出されたというより、専門の側を譲り渡して口語に残ったように見えます。挨拶と体感の領域には、数量に置き換えられない仕事が残っていた。気温十八度という情報は、上着を脱ぐかどうかを各自に委ねますが、いい陽気ですねという一言は、脱いでよいという合意をその場で作ります。
ここで自分の観察に異議を挟んでおきます。もし陰陽の対がそのまま残っているなら、「陰気」も同じように使えるはずです。ところが「今日は陰気ですね」は挨拶になりません。陰気な天気とは言えても、それは天候の記述ではなく不平です。さらに言えば、陽気は座や町といった集団に貼りやすく、陰気は個人に貼りつきやすい。対のうち片方だけが挨拶に耐え、片方だけが人格の評価に沈む。この非対称から見えてくるのは、「陽気」がすでに天候の記述ではなくなっているということです。共有できる快さの宣言——だから相手に向けて言える。
この来歴は、書くときの選択に効きます。「陽気な男だった」と書けば、語は人格の属性表に収まります。けれど元の働きは、場に満ちている状態を言うことでした。その男が入ってくると座がほどけた、と書けば、同じ語は人ではなく空間を測る道具に戻ります。人物表の性格欄に一語を書き込むより、その人物が居るときと居ないときで部屋の温度が変わることを一場面書くほうが、この語が長くやってきた仕事に近い。そして場の側に置いた「陽気」は、後で崩すこともできます。同じ人物が同じように振る舞っているのに座がほどけない夜を書けば、変わったのは人ではなく気のほうだと読者は理解する。