推敲の途中で、「嬉しそうに笑った」を「嬉しげに笑った」へ直すことがあります。意味はほとんど変わらないつもりで直している。ところが読み返すと、文の走り方が変わっています。削れたのは一拍だけです。うれしそうに、で六拍、うれしげに、で五拍。文全体では二十数拍のうちの一拍にすぎないのに、着地の速さが違う。ここで、この直しは本当に語感の問題なのか、それとも数として説明できることなのか、が気になりはじめました。
まず拍から見ます。一拍の差は、単独では誤差の範囲です。しかし様態の修飾は一つの場面に何度も現れるもので、視線、口元、声、姿勢と描写を重ねれば、同じ形式が四回も五回も出る。そのたびに一拍ずつ短くなれば、段落の長さは目に見えて変わります。加えて「げに」の側には促音も長音も入らず、二拍で言い終えてしまうので、拍数の差以上に短く感じられる。逆に「そう」は長音を含むぶん、そこで一度、息が伸びる。長音は文の中で小さな踊り場をつくり、読者の目に止まる場所を与えます。速く進めたい段落と、止まってほしい一文とで、選ぶ側が変わってくる。
字面の側も数えておきます。嬉、という字は常用漢字表に採られていません。新聞や教科書の本文では表外字を避けるのが原則なので、この形はそうした紙面にほとんど現れず、現れるとすれば、うれしげ、と開かれることになります。開けば四字、閉じれば三字。拍のほうは、う、れ、し、げ、で四拍のまま動きません。音は変わらず、行の中で占める幅だけが一字ぶん変わる。縦組みの原稿では、この一字が行末の追い込みや追い出しを左右することがあります。文字数と拍数がずれる例として、これは扱いやすい。速さを決めているのは拍で、面の密度を決めているのは字種のほうだと切り分けられます。仮名が四つ続けば、前後の漢字語からの浮き上がり方も変わってきます。
次に、この接尾辞がどこに付けるかを数えてみます。悲しげ、寂しげ、不安げ、得意げ、自慢げ、意味ありげ——付く相手はかなり限られていて、いくらでも作れる形式ではありません。「美しげ」「暑げ」は言いにくく、「楽しげ」は通る。生産性が落ちた接尾辞は、それだけで古い層の匂いを帯びます。実際、会話文にこれを置くと、話者が急に本を読む人になってしまう。地の文の側に偏って生き残った形式だと考えると、文体の標識として使えることになります。語り手がどの棚から語彙を取ってくる人物なのか、この一語が示してしまう。使える構文の数も数えておくと、連用修飾と連体修飾の二つに限られます。嬉しげに笑う、嬉しげな声。述語の位置に据えた形は、書けなくはないものの地の文ではまず見かけません。付く語幹が少ないうえに立てる場所も少ない。その二つが重なって、この形式の出現頻度は最初から低く抑えられています。
置く位置でも効き方が変わります。嬉しげに、を文頭へ出すと、様態が先に立ち、動作があとから追いつく形になる。散文の標準的な語順では動詞のあとに置けないので、選べるのは文頭か述語の直前かの二択です。直前に置けば修飾と被修飾が密着して一つの塊になり、読者は一息で通過する。文頭へ出せば、そこで主題のような重みがつき、あいだに別の要素を挟めるぶん、様態が段落全体へ広がって見える。同じ五拍でも、文のどこで消費されるかによって残り方が違います。一拍の差が誤差の範囲に感じられるのは、たいてい述語の直前へ置いた場合です。文頭へ動かした途端に、その一拍は行頭の見え方の差として表に出てきます。
短くなるのは得か、という点では、そう単純でもありません。圧縮した分は読者の推論に振り替えられます。「嬉しそうに」は、そう見えた、という観察の手続きをわずかに残しますが、「嬉しげに」はその手続きごと畳んでしまう。内容語の密度が上がった文は速く読まれ、速く読まれた文は残りにくい。密度を上げるほど印象が濃くなるわけではなく、むしろ通過されやすくなる——推敲でこの直しを重ねた原稿が、全体としてのっぺりして見えることがあるのは、たぶんこのためです。
だから数え方を変えます。一文の拍を数えるのではなく、章のなかにこの形式が何度出るかを数える。経験的には、同じ接尾辞が三度を越えたあたりから、読者は語り手の癖として意識しはじめます。四度目からは、人物の様子ではなく文体のほうが前に出る。数える対象を語から形式へ上げると、推敲の判断も変わります。ここを縮めるべきか、ではなく、この段落は速く抜けるべきか止まるべきか。一拍の得失は、その判断が済んでから初めて意味を持ちました。