「獣みたいな男」なら、そのまま言えます。意味をほぼ変えずに「獣のような男」と書き換えることもでき、動いたのは文体の格くらいのものです。ところが二つの形式は、名詞への付き方が違う。「みたい」は名詞の直後にくっつくのに、「よう」のほうは「の」を一つ挟まないと後ろへ回れません。助詞一字ぶんの差ですが、これは語の出自の差から来ています。後者はもともと名詞に近い性質を持つ語で、名詞と名詞をつなぐには助詞が要る——古い形が古い作法を引きずっているわけです。前者は口語のなかで育った比較的新しい形で、その作法を必要としません。直喩を作る形式が、別々の系統から供給されている。
「獣な男」とは書けません。同じ意味を伝えたければ、間に「のよう」を挟んで六文字に膨らませるほかない。この不便さは、日本語の名詞が形容の位置へ入るときに課される制約から来ています。名詞をそのまま連体修飾に使う道は「の」による接続しかなく、それだと所有や所属の読みが優先される。獣の男では、獣が飼っている男か、獣たちの中の男に見えてしまう。比況、つまり「似ている」という関係を明示するには、専用の形式が要るわけです。
その専用の形式は、形容動詞と同じ型で活用します。終止形の「ようだ」、連体形の「ような」、連用形の「ように」。実質はこの三つで、ほかの形はほとんど使われません。活用が痩せているぶん、置く位置が意味を強く決めます。文末に置けば話し手の判断を表す述語になり、名詞の前に置けば属性の記述になり、動詞の前に置けば動作の様態になる。同じ比況が、位置ひとつで判断・属性・様態のあいだを移動する。この移動の幅こそが、直喩を書くときに実際に操作している対象です。
移動には副作用があります。連体形にすると、係り先が一意に決まらない場合が出てくる。「獣のような声で叫んだ」という文では、獣に似ているのは声そのものなのか、叫ぶという行為の全体なのかが確定しません。名詞にかかっているように見えて、実際には述語まで届いている読みも残る。ここを一意にしたければ連用形へ落として「獣のように叫んだ」と書けばよく、そうすると比況は動作にだけかかります。逆に声質そのものを言いたいなら、声を主語の位置へ出して独立させる手がある。曖昧さは文体の味として残すこともできますが、残すかどうかは選べる、という認識があるかどうかで文章は変わります。
外から曖昧さを潰す道具もあります。呼応の副詞です。文の頭に「まるで」を置けば、そこから先の形式は比況としてしか読めなくなる。「まるで獣のような目でこちらを見た」——この一文の後半を、別の意味に取る読者はいません。副詞が先に読みを決めてしまうからです。同じ働きは「さながら」「あたかも」にもありますが、こちらは文語の色が濃く、置いた一文だけ地の文の水位が上がる。呼応の副詞を添えるかどうかは、曖昧さを消すかどうかの判断であると同時に、文体の高さを選ぶ判断でもあります。ただし毎回添えると、これから比喩を言いますという予告が先に立ち、直喩そのものが説明くさくなる。曖昧さを残すか、副詞で潰すか、連用形へ落とすか。手は三つあって、費用がそれぞれ違います。
もう一つ、修飾の層が深くなるほど比況の強度が落ちるという現象があります。「獣のような男」は男そのものの属性ですが、「獣のような目をした男」になると、比況は目という部分にいったん止まり、男へは間接的にしか届かない。さらに「獣のような目をした男を見た気がした」まで伸ばすと、比況は三重の入れ子の最奥に沈んで、読者の印象にはほとんど残りません。直喩の効き目は語彙の派手さではなく、述語からの距離で決まる部分が大きい。強く効かせたいなら、比況を文の骨格に近い位置へ持っていくのが確実です。
そしてこの形式には、しばしば見落とされる非対称があります。連用形の「ように」は、比況だけでなく目的や指示の意味も担う。「逃げないように見張る」の「ように」は、何かに似ているという話ではありません。同じ音形が二つの機能を兼ねているため、比況として使いたい文の中に目的の用法が近接すると、読み手は一瞬どちらか判断を保留します。連体形の「ような」にはこの曖昧さがない。直喩を連用形で書くか連体形で書くかという選択には、リズムの問題だけでなく、こういう機能の衝突を避けるという実務的な理由もあるのです。