記者会見で、その点については立場を鮮明にしていただきたい、と問われる場面があります。求められているのは画質ではなく態度の表明です。答える側もそれを承知していて、現時点で申し上げられることはない、といった返し方をする。この短いやりとりの中で、語は事実の記述からほとんど離れ、交渉の駒として動いています。
態度に使われるとき、この語は必ず一つの前提を持ち込みます。それ以前は明瞭ではなかった、という前提です。厄介なのは、前提が否定によって消えないことです。そこを明らかにする必要はない、と答えても、それまで曖昧だったという含みは残ったままになる。この現象は語用論で前提の投射と呼ばれ、状態の変化を表す語一般に共通して観察されます。問いを立てた側は、答えの内容を得られなくても、前提だけは相手に受け取らせている。要求の形をした断定です。
丁寧さの層も同じ方向に働きます。していただきたい、という言い方は、命令を和らげる形式でありながら、公の場では要求の強度をむしろ上げます。丁寧な形をとることで、話し手は自分が正当な手続きを踏んでいると示し、断る側の負担を増やす。要求は形式の上で柔らかくなるほど、断るコストが高くなることがある——このねじれは、依頼表現一般に見られるものです。
もう一方の用法は、写真や映像の語彙から来ています。鮮明な画像、鮮明でない音声。この系統の使い方には、観測の限界という含みが付いてきます。映像が鮮明でないため断定できません——この言い方が便利なのは、判断の保留を機器の性能に帰せるからです。話し手の責任は装置の側へ移り、誰も嘘をついていないまま結論だけが宙に浮く。技術の語彙が日常の弁明に流用されるとき、たいていはこの種の転用が起きています。鮮明化という語形になると手続きの含みがさらに強まり、誰かが作業をすれば解決するという前提までが持ち込まれます。
鮮明に覚えている、という言い方は二つの用法の間にあります。形の上では記憶の正確さを主張しているようですが、実際に述べられているのは主観的な明瞭度だけです。明瞭さと正確さは別の軸にあり、はっきり思い出せることと事実に合っていることは無関係です。それでも聞き手は、これを証言の強さとして受け取る。語の意味そのものが言っていないことを、発話の場が補ってしまうわけです。
創作の側から見ると、この非対称は使えます。人物にこの言い方をさせると、それは記憶の描写ではなく、証言としての態度表明になります。言い切った以上、後で細部が食い違ったときに人物は嘘つきになる。逆に語り手が地の文で使う場合は読者への保証として働き、細部が食い違えば疑われるのは語り手そのものです。誰の口に置くかで責任の所在が変わる語は、そう多くありません。
この語は明瞭さを述べる語ではなく、明瞭さを主張する語である。主張である以上、責任がどこに発生するかを先に決めてから使うのが安全です。