声に出して並べてみると、近い意味を持つ語のあいだに、意味とは別の差があることに気づきます。おごそか。けだかい。こうごうしい。とうとい。そして、せいなる。前の三つには濁音が含まれ、最初の一つでは硬い破裂の音が二度立ちます。最後の一つには、破裂音も濁音も一つもありません。摩擦の s、鼻に抜ける n、舌の触れる r、そのあいだを母音が繋いでいくだけです。息が一度も遮られない。口の中で何も壊れない音の連なりで、この語はできています。
音象徴の研究では、濁音が大きさや重さの印象と結びつくことが繰り返し報告されています。破裂音についても、硬さや衝撃と結びつく傾向が指摘されてきました。この知見をそのまま当てはめれば、濁音を持つ語は重量や威圧の側に、持たない語は軽さや透明の側に振れる、という整理ができそうに見えます。厳めしさを表す語に濁音が多く、穢れのなさを表す語に清音が多いのなら、話は簡単です。
ただ、そこで止まってはいけない気がします。「せい」という音は、この語の専有物ではありません。同じ音を持つ語は性にも制にも政にも生にもあって、そのどれもが清らかさとは関係ない。音そのものが意味を運んでいるという説明は、この時点で崩れます。音象徴が働くのは、意味をまだ知らない語を初めて聞いたときや、擬音を作るときのような限られた場面であって、既に意味の定まった語では、意味のほうが音の印象を上書きしてしまう。順序が逆なのです。
それでも残るものがあるとすれば、文の中に置いたときの運動のほうです。この語は必ず後ろに名詞を従えます。四拍の修飾語が名詞に接続して、そこで一度リズムが区切られる。しかもこの形は、口語の連体修飾に使われる「な」ではなく、文語の断定に由来する形をとっています。現代語の中で同じ働きをする語のほとんどが「な」で繋ぐのに、この語だけが違う繋ぎ方をする。読者は文法を意識しなくても、接続の異物感だけは受け取ります。
拍の数も無関係ではありません。日本語には四拍でひとまとまりになる語が多く、二拍を一組として二組並ぶ形は、俳句や標語の字数感覚とも地続きです。この語は四拍で、修飾先の名詞に接続したときに、余りも不足もなく次へ渡ります。同じ意味圏でも六拍の語になると、修飾語だけで一息を使い切ってしまい、後ろの名詞が息継ぎの向こう側に落ちる。荘重さを狙って長い語を選ぶと、かえって文が重たく崩れることがあるのは、意味ではなく拍の収支の問題です。
そして末尾の一音が効きます。ru で終わる形は、日本語では動詞の言い切りと同じ音末です。だから文中でこの語に出会った一瞬、読み手の処理はわずかに動詞の可能性を検討して、次の名詞が来て初めて修飾語だったと確定する。ごく短い揺れですが、揺れは確かにある。古い形が現代文の中に残っているというのは、意味の古さの話であると同時に、この処理の一瞬の遅れの話でもあります。荘重さは音の柔らかさから来るのではなく、読み手をわずかにつまずかせる文法の古層から来ている——並べて声に出したところから始めて、たどり着いたのはそういう場所でした。