「暗い過去」は書けるのに、その裏返しはほとんど書けません。並べてみるまで気づかない非対称です。未来のほうは両側とも通る。見通しの立つ未来も、立たない未来も、日本語は同じ形で言い分けられる。ところが過去に対しては片方だけが定着し、もう片方は座りが悪い。同じ光の比喩を使っているのに、時間の向きによって使える側が変わる。ここに何かある気がして、しばらく手を止めました。
光を知に写す比喩自体は、あちこちに顔を出します。隠されていた事実は明るみに出るし、ある分野に詳しい人はその分野に明るいと言われる。後者はふるまいが変わっていて、詳しさの対象を「に」で受ける。知識を、光の届いている領域として空間に置き換えているわけです。だから守備範囲という言い方とも自然につながる。この段階では、明暗の軸は知っているかどうかの軸に対応している、と整理できます。
それで先ほどの非対称に戻ると、説明がつきました。暗い過去とは、隠されていて見えない過去のことです。では明るい過去は何を意味するか。隠すものが何もない過去、つまりわざわざ言う必要のない過去になる。言語は、言う必要のないことのために語形を用意しません。片側だけが定着したのは、光の比喩がここで暴露の有無に接続しているからでしょう。未来に対しては接続先が違って、こちらは見通しが利くかどうかになる。同じ一語が、向く時間によって別の写像を選んでいる。
ただ、対義語の側を並べると、話はきれいに終わりません。暗いほうは、過去にも未来にも性格にもつく。片側だけが三つの領域を覆っている。理由を考えると、比喩の出発点である隠蔽も見通しの悪さも読み取りにくさも、どれも欠如の記述だからでしょう。欠如は言うに値するが、充足はわざわざ言われない。対義語の対称性は、語形の上にはあっても、使われ方の上にはない。
語源の側にも触れておきます。アカ(明)とアカ(赤)、クラシ(暗)とクロ(黒)を同源と見る説があり、夜明けの空の色と明るさが一つの語根に束ねられていたとする見方です。断定はできません。ただ、身体で経験する現象が抽象的な比喩を支えるという認知言語学の見立てとは、よく噛み合います。空が赤くなる時刻に、見えなかったものが見え始める——写像の起点として、これ以上素直な経験もない。
ただ、写像はもう一つあります。明るい性格は、暴露でも見通しでもない。光量が上がると細部が見えるように、内面が読み取りやすい人は安全だと感じられる、という道筋でしょう。三つ目の写像は情動の評価に接続していて、しかもこれが現代語では最も強い。だから人物紹介の文でこの形容詞を使うと、性格の写像が真っ先に起動し、他の二つは死にます。書き手が場面の照度を書いたつもりでも、読者は人柄を読む。逆に言えば、部屋の明るさを本当に書きたい場面では、この語を人物の近くに置かないほうが安全です。三つの写像は共存できず、文脈が一つだけを選びます。