小説のテキストファイルを圧縮すると、ある種の言い回しはほとんど場所を取らずに畳まれます。圧縮の基本的な仕組みは、一度出てきた文字列を後から参照で置き換えることと、出やすい記号に短い符号を割り当てることの組み合わせです。だから、書き慣らされた比喩ほど小さくなる。逆に言えば、圧縮後のサイズは、その表現がどれだけ予測しやすいかの目安になります。定型句が短く畳まれるのは、それが前もって予測できてしまう並びだからです。
情報理論では、ある事象の情報量を、その事象の起こりやすさの対数で測ります。起こりやすいものほど、知らされたときの情報は少ない。この物差しで比喩を眺めると、慈愛の形容としてこの句が来ることは十分に予測できる並びで、読者がそこから受け取る新しい情報は少ないことになります。陳腐さという感覚的な評価に、一応の数量的な裏づけがつく。ここまでは気持ちのいい話です。
ところが、その先で引っかかります。出やすいものに短い符号を割り当てるのは、符号化の設計として正しいやり方です。頻出する記号に長い符号を与える圧縮器は、単に効率が悪い。文章も同じで、全部の文が高い情報量を持っていたら読み通せません。読者の処理には配分があって、既知の型で流せる箇所があるからこそ、他の箇所に注意が残る。予測しやすい句は無価値なのではなく、安く読める箇所として機能している。問題は、この句を使ったことそのものではなく、安く読ませてよい場所にそれを置いたかどうかです。
圧縮には、可逆と非可逆の別もあります。可逆なら展開して元に戻せますが、非可逆の側は、受け手が気づきにくい成分を捨てることで小さくする。捨てた成分は戻りません。書き慣らされた比喩は、後者に近い畳まれ方をします。慈愛という骨格だけが残り、その句が背負ってきた図像——西洋絵画の中で幾度も描かれてきた姿勢や表情の記憶——のうち、誰の顔か、どこを見ているか、腕はどうなっているかといった細部は落ちる。読者はそこから元の絵を復元しません。骨格を受け取り、細部は各自の手持ちで埋める。埋めた結果が一致している保証は、どこにもない。
物差しそのものが取り違えを起こすこともあります。この句の末尾を文語調に替えた形は、内容としてはまったく同じものを運びながら、並びとしては現代の文章にめったに現れません。起こりにくいものほど情報量が大きいという先の物差しに従えば、こちらのほうが多くを伝えていることになる。ところが増えているのは、聖母についての情報ではない。語り手が一段高い位置に立った、という話し手の側の情報です。同じ尺度の上で、像の新しさと文体の珍しさが区別なく足し合わされてしまう。数量化が実感とずれるときは、たいていこの取り違えが起きています。
だからこの表現を使うときに書き手が決めているのは、読者がどれだけその外部を持っているかという賭けです。図像の記憶を共有している読者には、六文字ほどで一枚の絵が立ち上がる。共有していない読者には、ただの慈愛の言い換えとして通り過ぎる。前者を当て込むなら、周辺に絵の側の情報——腕の角度でも、伏せた目でも——を一つ添えておけば、賭けの分が悪くなくなります。安い符号は、安いまま使うか、隣に高い符号を置いて釣り合わせるか、どちらかです。