登場人物がこの語を口にする場面は、思い出そうとしてもなかなか出てきません。誰かが誰かを評して言うより、地の文が人物を読者に差し出すときに現れる。作中人物の語彙ではなく、語り手の語彙として生きてきた語です。日本の近代小説が、人物を外側から一行で提示するという型を手に入れたとき、この種の漢語形容動詞がその位置へ呼ばれました。
言文一致以前、描写の語彙は文語の枠組みに支えられていました。明治二十年代に口語による小説文体の模索が始まると、地の文の骨格は和語寄りへ移っていきます。ところが、人物の風姿を短く言い切る役だけは和語では収まりが悪い。和語で書けば説明が伸び、伸びれば一行の紹介にならないからです。結果として、漢語の形容動詞は口語文の中に居場所を保ちました。同じ層に属する語をいくつか並べると、性格が揃っているのが分かります——端麗、怜悧、剛直。どれも会話文には降りてこず、地の文の高さに留まったままです。
この語には、文語の畳語である「楚々」との縁もあります。字を共有し、意味の方向も近い。畳語のほうは口語の中でさらに古風な位置に退き、使う書き手が限られていきました。二つを並べると、同じ字が近代の文章語のなかで二つの高さに分かれて残ったことになります。片方は紹介文の実用語として、片方は擬古的な装飾として。文語から口語への移行は語の総入れ替えではなく、こうした階層の再配置として進んだ面が大きいと考えられています。
意味の範囲も、近代を通して狭まりました。もともとは清らかでさっぱりしているさまを言う語で、住まいや文章にも使えたとされます。それが次第に、人、とりわけ服装や立ち居振る舞いの評価へ絞られていった。この狭窄を主導したのは小説そのものというより、雑誌や広告の人物記述だったという見方があります。文学が型を作り、商業的な文章がその型を大量に反復して固定する——語の意味変化には、しばしばこの二段構えが見られます。
試しに会話文へ降ろしてみると、この語の来歴が逆側から見えます。登場人物に「清楚な人ですね」と言わせると、褒め言葉であるはずなのに、どこか品定めの響きが混じる。話者が対象を紹介文の側から眺めている、という構図が語に染みついているからです。同じ内容を人物の口から自然に出したければ、和語へ崩すか、具体的な部分を指すしかない。書き言葉として育った語を話し言葉に置くと、その語がどこで育ったかが露出します。地の文と会話文の落差は、しばしばこの育ちの差から生じます。
そのため、いま地の文にこの語を置くと、明治以来の紹介文の型が一緒に呼び出されます。語り手が人物を少し上から、少し遠くから見ている構図が自動的に立ち上がる。それを避けたいなら、同じ内容を動作へ翻訳するほかありません。袖口の始末、声の張らなさ、荷物の置き方。逆に、型が来ることを承知のうえで置けば、この語り手は古い距離から人を見る人物だ、という情報を一語で渡せます。語彙の来歴を知っておく実利は、そこにあります。目的は回避よりも、来歴ごと使うかどうかを選べるようになることです。