色校正の紙に、もっと鮮やかに、と赤字が入ることがあります。受け取った印刷の側は、その一行を具体的な操作へ置き換えなければなりません。彩度を上げるのか、隣り合う色との差を広げるのか、版のずれを詰めて輪郭を締めるのか。指示は一語で届き、作業は何本かの道に割れる。ある体系の一語が別の体系へ渡されるときに分岐してしまうという点で、この赤字は翻訳の縮図になっています。どの道を選んでも赤字には従ったことになるのに、仕上がりは別物になる。
鮮やかな朱、鮮やかな手際。日本語では同じ形容が色にも動作にもかかりますが、英語に移すと二つは別々の語に分かれます。前者は vivid あたりが受け、後者は deft や masterly の側へ行く。対応表を作ろうとすると、この語の輪郭は最初の一行で崩れます。
色の際立ちと動作の切れ味が一語にまとまるのは、日本語の側が両者に共通の何かを見ているからです。共通項はおそらく、周囲との境界がはっきりしていること。にじまない色と、ためらいの見えない動作は、輪郭が明確という一点で結ばれます。英語はこの明確さを、色については vivid、切り口については clear-cut、動作については別の系統の語で受け、三つをまとめる上位語を用意していません。分節の線が違う場所に引かれている、というだけの話であって、どちらの言語が精密だという問題ではありません。
三つの語の来歴を並べると、入口の違いがはっきりします。英語の vivid はラテン語で「生きている」を意味する語に遡り、生命の側から明るさへ手を伸ばしました。漢字の鮮は魚と羊を組み合わせた字で、中国語では新しさ・生きのよさに重心があり、新鮮や鮮度がその系統です。和語のあざやかは、色でも生命でもなく、周囲から際立って見えることを言う語でした。生命、食材の新しさ、視覚的な際立ち——別々の場所から出発した三つが、翻訳の場でひとつの升目に押し込められている。訳語が完全に重ならないのは当然で、重なっているように見える部分のほうが偶然に近い。そもそも日本語がこの字にあざやかという和語を当てた作業自体、すでに翻訳でした。訓読みとは、外来の文字に土着の語を対応づける操作であり、訳語で置き換えるかわりに文字ごと自分の側へ引き入れた翻訳です。訳しにくさは、この最初の重ね合わせの時点で仕込まれていました。
升目はもうひとつあります。鮮やかな逆転、と書くとき、話題は色でも技能でもなく、出来事の運び方そのものです。この用法では、勝負や交渉や引き際といった、時間をかけて進んだ事柄の決着が評価されている。無駄な曲折がなく、どこで形勢が入れ替わったのかが後から一目で辿れる——そういう決着に、この形容は付きます。英語でその場面を受けるのは brilliant や spectacular のあたりで、色を受ける語とも技を受ける語とも、また別の系統です。三つ目の領域が出てきても、日本語の側の共通項は動きません。にじまない色、ためらいのない動作、曲折のない決着。散らばった三つを束ねているのは、やはり境界がどこにあるかが見えるという条件だけです。
逆向きに考えると別の面が見えます。vivid memory を鮮やかな記憶と訳すか鮮明な記憶と訳すかで、その記憶の質は変わります。前者は色や動きを伴って立ち上がる記憶、後者は細部の輪郭が保たれている記憶。英語の一語が日本語では二つに割れ、訳者はどちらかを選ばざるをえません。原文が持っていた曖昧さは、訳した瞬間に消えます。翻訳で失われるのは意味ではなく、選ばずに済むという状態のほうです。
作中でこの形容を使うとき、読者は文脈から色か技かを一瞬で選び取っています。だから、あざやかだった、とだけ書かれた一文は、その選択を読者に丸投げすることになる。直前に色があれば色として、直前に動作があれば技として読まれます。逆に言えば、何が際立っていたのかを一語添えるだけで、この形容は具体を取り戻す。ついでに言えば、反対側にはこれほど働く一語がありません。にじむ、ぼやける、もたつく、しくじる——境界が曖昧になる側は、領域ごとに別の動詞で受けるほかない。明確な側にだけ横断する一語が用意されているという非対称が、ここにあります。一語で三つを言えるのは強みですが、強みは使い方を選びます。輪郭のはっきりした語ほど、置く場所の輪郭を要求する。