二つの文字列がどれだけ違うかを測る素朴な方法に、編集距離があります。片方をもう片方に変えるのに、挿入・削除・置換が最小で何回要るかを数えるだけのものです。これで「凄惨」と「凄絶」を測ると、距離は1。一文字を置き換えれば移れる。ところがこの二語を同じ場面に置き換えて使えるかというと、たいてい使えません。逆に「血なまぐさい」との距離は、共通する文字が一つもないので最大に近い。それでいて、置き換えの利く場面は明らかにこちらのほうが多い。字面の距離は、意味の距離を測る道具として役に立たないわけです。
では分布を見ればよい、というのが次の手になります。同じ文脈に現れる語は似ている、という考え方で、実際よく効きます。ただし何をもって似ているとするかは、材料にしたコーパスが決めてしまう。この語は事件や災害の報道に寄り添って現れ、「凄絶」は競技や闘争の記述に寄る。分布から取り出せる近さは、意味の近さというより文体域の近さです。近さを一本の数で返す仕組みには、もう一つ難があります。返ってきた近傍の中には、置き換えの利く語と、同じ文脈に出るだけで置き換えの利かない語が、区別されないまま混ざっている。反対の意味を持つ語ほど同じ文脈に現れるので、距離の上ではむしろ近くに出てくる。近いことと交換できることは、別の関係です。書き手にとっては、これはむしろ実用的な情報でもある。読者はその語をどこで見慣れているか——語の選択とは、読者の記憶のどの棚を開けるかの選択でもある。
語彙になっているかどうか、という線も引けます。この二字は辞書の見出しとして登録された一語で、まとめて一つの単位として扱われる。「凄まじい」は活用する語として別に立ち、「血の海と化した」に至っては、単位ではなく普通の文がひとつあるだけです。登録された表現は、機械が数えるときも読者が受け取るときも、一塊のまま通る。書き手がその場で組み立てた言い回しには、その一塊がありません。毎回、部品から組み直される。組み直しには時間がかかりますが、その時間は読者の側でも支払われます。既製の一語を通すか、部品からの組み立てに付き合わせるか。読む速度の設計としては、まったく別の選択です。
言い換えると、この二字は型の名前です。プログラムの型は、値がどの集合に属するかを宣言しますが、値そのものは抱えていません。整数だと宣言されても、それが 3 なのか 10007 なのかは分からない。分類語も同じで、事態がどの集合に入るかを言うだけで、中身は渡してこない。しかも読者の側は、型の階層をそれほど細かく保持していません。凄惨、凄絶、悲惨、惨憺。書き手が区別して選んだつもりでも、読者はもっと粗い上位の型へ暗黙に変換して読みます。ひどい出来事、という一段上の型に丸め込まれる。変換は一方向で、粗いほうから元の型へ戻す手段はない。書き手が精密に選び分けた差は、この一方向の変換で失われます。語を選び直す労力が報われにくいのは、そのためです。
ここで一度疑っておきます。一塊で通ることは、書き手にとって得なのか。一単位で処理できる語は、読者の側でも一単位で受け取られる。つまり通り過ぎられる。凄惨な現場、という四文字は、事態の分類を伝えますが、像は結ばない。任意のデータを決まった長さの値へ畳むハッシュという処理がありますが、得られた値から元のデータを復元することはできません。分類語も似た働きをしています。現場から要約値だけが取り出され、その値が何から作られたのかは渡らない。一致の確認には使えて、再現には使えない種類の情報です。圧縮の比喩を重ねてもいい。分類語は不可逆な圧縮で、しかも圧縮率が極端に高い。二字で一場面を畳んでしまう。細部の描写は圧縮率が低く、そのぶん行数を食う。書き手が場面ごとにしているのは、どれだけの帯域をそこへ割り当てるかという配分です。
だから直し方は、語を替えることではない。要約に畳めないものを、その語の隣に一つ置くことです。固有の物、数、匂い、手ざわり。倒れた自転車の車輪がまだ回っていた、と書けば、分類語の隣に畳みようのない細部が並ぶ。読者はそこで要約値を受け取りそこね、像を作るしかなくなる。置くのは一つでよく、三つ並べると細部の側が新しい分類になります。分類は分類のまま残しておいてよい。むしろ残したほうがいいでしょう。語り手が事態を名づけていることと、読者が細部を見てしまうことは、別の層で同時に成立します。