魔法めいた手際、魔法じみた手際、魔法的な手際。どれも文としては成立しますが、置き換えるたびに、褒めているのか疑っているのかが動きます。文法の観察は、こういう差し替えから始めると早い。意味が近いと言われている語ほど、入れ替えたときに動く量が正確に測れます。名詞の前に立って「それに似ている」と述べる働きは同じなのに、四つの形式はまったく違う出自を持っています。同じ席を、違う品詞が奪い合っている状態です。
学校文法の枠で整理すると、「ような」は助動詞「ようだ」の連体形にあたります。名詞に接続するときには「の」を要求し、これを落とすと非文になる。一方「めいた」は動詞「めく」の連用形に「た」がついた形で、名詞に直接つきます。「じみた」は動詞「じみる」、「的な」は接尾辞「的」に「な」がついた形容動詞相当です。助動詞、動詞、動詞、接尾辞。四つの品詞が同じ位置を埋めているという事実は、日本語の連体修飾がいかに多くの入口を持っているかを示しています。
同じ助動詞が複数の仕事を掛け持ちしている点も見ておきます。「ようだ」は、似ていると述べる比況のほかに、推定と例示を担います。雨が降るようだ、は推定。彼のような人は困る、は例示にも比況にも読めます。名詞に「の」を介してつく形は、この二つの読みが衝突しやすい位置です。王のような男、と書けば、王に似た男とも、たとえば王をはじめとする立場の男とも取れる。ところが、いま見ている形ではその衝突が起きません。手際も変化も一夜も、魔法と同じ種類の集合には入らないからです。範疇が違いすぎて、例示として並べようがない——その事情が、読みを一つに固定しています。例示の読みが立ち上がるには、修飾する側とされる側が同じ範疇に属していなければならない。範疇をまたいでいるかどうかを、読者は瞬時に判定して読みを一つに絞っています。
活用の非対称も見ておく価値があります。「ようだ」は連体・連用・終止のいずれの形も日常的に使われ、体系として揃っている。ところが「めく」は動詞であるにもかかわらず、実際に使われる形が偏っています。謎めいた、春めいた、といった連体の形は自然でも、終止形で言い切る用法は現代語ではほとんど見かけません。形態論の上では活用表のすべての枠が埋まっていても、実際の使用はそのうちの一部に凍りついている——語の活力は、可能な形の数ではなく、生きている形の数で測ったほうが実情に合います。
係り先の自由度にも差があります。連体の形は名詞に掛かりますが、連用の形にすれば用言へ掛けられる。魔法のような手際で扉を開けた、と、魔法のように扉を開けた。前者では比喩が名詞句の内側に閉じ、文が述べている出来事そのものは事実のまま残ります。後者では、動作の記述そのものが比喩に染まる。地の文で事実関係を保ったまま印象だけを足したい場面では、連体の側を選んでおくほうが安全です。他の三つには、この対が揃っていません。的なには的にが対応しますし、めいて、じみて、という連用の形も無いわけではないものの、後ろに続けられる相手がひどく限られます。同じ席を争っていた四つは、席を一つ隣へずらした途端に数を減らします。
そのうえで、四つの意味の差は共起の傾向として現れます。「じみた」は否定的な評価と結びつきやすく、子供じみた、芝居じみた、所帯じみた、と並べると傾向がはっきりします。「めいた」は、そう見えるが実体は違うという含みを持ち、謎めいた、皮肉めいた、のように、断定を避けたいときに選ばれる。「的な」は分類の語で、対象を種類の中に位置づけます。そして「のような」だけが、評価にも実体の否定にも傾かず、中立に留まる。中立であることは使い勝手のよさに直結しますが、同時に、何も付け加えないということでもあります。四つのうち三つは、置いた時点で語り手の立場を一つ表明してしまう。残る一つだけが、表明せずに済ませられる。
この形式が手垢に見えやすい理由は、そこにあります。どこにでも置ける形式は、置いたときの効果もどこでも同じになる。差し替えのテストを一度だけ通してみると、その場面で本当に必要だったものが見えてきます。語り手が評価を下したいのか、見かけと実体のずれを示したいのか、単に程度が甚だしいと言いたいのか。三つは別の要求で、別の形式が対応します。品詞が違えば、文の中で背負える情報の種類も違う。似た意味の言い回しが四つ並んでいるとき、選択の根拠を意味の側だけに求めると、たいてい最も中立なものが選ばれてしまいます。