新聞の見出しで「安全神話が崩れた」という言い方を見かけます。ここでの神話は、多くの人が疑わずに信じていた誤り、という意味です。同じ紙面のスポーツ欄には「神話のような一戦」と書いてある。こちらは最上級の讃辞です。同じ語基が、同じ日に、同じ媒体で、正反対の評価を帯びている。誤植ではなく、どちらも自然に読める。
語の意味が時代とともに悪いほうへ滑る現象は珍しくありません。もとは敬意を含んでいた「貴様」や「お前」が、現在では敬語として使えなくなっているのはよく知られた例です。評価の下降はゆるやかに起きて、途中では両方の読みが並存します。「神話」の場合、明治期に西洋語の myth の訳語として整えられ定着したとされますが、そこから百数十年で、複合名詞の位置にあるものだけが評価を下げた。成長神話、不敗神話、安全神話——いずれも、崩れることを前提に呼ばれています。崩れないものを人は神話とは呼ばない。崩壊の予告が語の中へ入り込んでいるという点では、バブルや幻想といった語の隣に並べたほうが実態に合います。
ここで気づくのは、悪化したのが語そのものではなく、特定の構文だけだということです。名詞を前に置いて複合名詞を作る型では下がり、「〜のような」で連体修飾に立つ型では下がっていない。同じ語基が構文ごとに別の履歴を持っている。意味変化を語の単位で語る癖がついていると、この分かれ方は見落とされます。実際には、語は用いられる型ごとに別々の頻度分布と別々の文脈を持ち、その分布ごとに評価が沈殿していく。
同じ分かれ方は、近い語でも起きています。伝説は、連体で使えば讃辞です。伝説の投手、伝説の一夜。ところが複合名詞の後部に立つと、都市伝説のように、根拠のない話という意味へ寄る。連体では持ち上げ、複合では疑う。配分が神話とそっくり同じです。二つの語が独立に同じ道をたどったとは考えにくく、むしろ構文の型のほうが評価を配っている、と見るのが自然でしょう。語が意味を持ち、構文はそれを運ぶ器にすぎない、という前提を外してみると、この一致は説明しやすくなります。器の側に、あらかじめ評価が積もっている。頻度の面でも複合名詞の型のほうが生産的で、新しい語を前に置けばいくらでも作れます。作られるたびに、崩れるという前提がついてくる。
とはいえ、これも言いすぎかもしれません。「神話のような」にも、疑いの色が差す用例はあります。「神話のような話だが、実際には帳簿が残っている」と書けば、後半で否定される前提として置かれている。つまり讃辞の型が完全に守られているわけではなく、後続の文脈しだいで倒れる。むしろこの句は、単独では評価が定まらない中立の位置にあって、隣に何が来るかで讃辞にも疑いにも転ぶ、と言ったほうが正確です。複合名詞のほうは隣を待たずに評価が決まっている。成長神話、と書いた時点で、その成長はもう終わったものとして扱われています。その差が本体だと思います。
原因を推測するなら、複合名詞の型は対象を分類する働きを持つからでしょう。分類する語は、話者がすでに外側に立っていることを示します。外から名づける以上、話者はそれを信じていない。一方「〜のような」は比喩で、対象を何かに似ていると言っているだけで、語り手の立ち位置を明かさない。明かさないから、讃辞としても使えるし、疑いの前置きとしても使える。英語の側にも似た分業がありますが、担い手が違います。名詞の myth は It's a myth that ... の形で誤った通念を指すのに使われ、形容詞の mythic は讃辞の側に立つ。あちらは品詞が分担し、こちらは構文が分担している。分ける必要があるという事情のほうは共通していて、分け方だけが言語ごとに違うわけです。
書くときの扱いとしては、この句を出したあと数行のあいだに「神話」を単独名詞で置かないほうが安全です。置いた瞬間に、複合名詞のほうが持っている外側の視線が読み込まれて、直前の讃辞が皮肉に見えはじめる。逆にそれを狙うなら、順序を守って並べればいい。讃辞を先に、名詞を後に。二文で評価がひっくり返ります。順序を逆にすると効きません。疑いが先に立ったあとで讃辞を置いても、読者はもう外側から眺めています。同じ語が二つの履歴を持っているというのは、書き手にとっては、切り替えのスイッチが一つ余分にあるということでもある。