竣工した翌年の建物と、五十年経った同じ建物を並べて考えてみます。物理的には後者のほうが確実に傷んでいます。壁は変色し、金具は錆び、床は軋む。ところが後者にだけ与えられる評価語があり、その語は劣化を欠点として数えません。損なわれた部分をそのまま資産に計上してしまう述語が日本語にはいくつかあって、これはその代表格です。減点法で見るか加点法で見るかという鑑賞者の姿勢の問題ではありません。語のほうに、時間の経過を織り込む仕掛けが最初から組み込まれている。同じ対象を指しながら、経年を条件として要求する語と、要求しない語が別々に用意されているわけです。
論理学では、文が主張している内容と、文が成り立つために前もって満たされていなければならない条件とを分けて扱います。前者が含意、後者が前提です。見分け方はよく知られていて、否定文にしてみればよい。含意は否定すると一緒に消えますが、前提は否定しても生き残ります。あの建物には風格がある、と言っても、ない、と言っても、その建物が相応の年月を経ているという条件のほうは残ったままです。残るからこそ、否定文が単なる不在ではなく、歳月は積んだのに見合うものが備わっていない、という含みを帯びる。ここが、単に肯定的な評価を与えるだけの語との分かれ目になります。
前提が満たされない対象に使うと、文は偽になるのではなく、奇妙になります。竣工三か月の建物や二十歳の新人にこの語を当てると、聞き手はまず誤りを疑うより、皮肉か誇張のほうを疑う。真偽を判定する手前で、解釈の枠組みごと切り替わるのです。逆に言えば、前提違反はそれ自体を修辞として使えます。年若い人物に向けてこの語を使う台詞を書けば、話者がその人物を年長者の枠へ押し上げようとしているか、あるいは軽くからかっているかの、どちらかの情報が無料で乗る。意味を説明せずに二人の関係の傾きだけを渡せるので、台詞としては効率がいい。
もう一つ、この述語は主語の内側だけで完結しません。誰かがそう認めることで初めて成立する、二階建ての判断です。身長や築年数のように計測できる性質ではなく——観察者の評価を経由してはじめて現れる性質だ、と言い換えてもいい。ここが作劇上は重要で、地の文が断定してしまうと、語り手が保証人の役を引き受けることになります。三人称の語り手が老剣士についてそう断じれば、読者はその評価を作品世界の公式見解として受け取る。すると後からその人物を打ち破る展開を用意しても、読者の中で格は揺らぎません。倒された事実と、保証された評価とが、別々の層に残ってしまうからです。
だから配置の設計はこうなります。断定を地の文から外し、対立する人物の観察として置く。敵役が渋々認める形にすれば、評価の主体は作中に固定され、語り手は中立を保てます。同時に、認めた側の眼力までが同じ一文で示せる。反実仮想を使う手もあって、若い頃の自分にこれが備わっていたなら、と回顧させれば、現在の到達点と過去の欠落を一度に描けます。条件節の中に置かれた評価語は、話者がそれを持っていなかったことを前提として引き連れてくるからです。前提を持つ語は扱いが面倒に見えます——面倒であるぶん、一語で運べる情報量は多い。