拍を数えると七つになります。ふ・り・つ・も・る・ゆ・き。和歌の下の句にも俳句の中七にもそのまま収まる長さで、口に乗せた時点でこの表現は半分だけ韻文の身体を持っています。日本語の詩型が五と七を基本単位にしている以上、七拍でひとまとまりになる連語は、散文に置かれても独立した拍節として立ちやすい。文の途中に差し込むと、そこだけ歩幅が変わります。景色の描写でありながら同時にリズムの単位でもあるという二重性が、この長い名詞句が使われ続けてきた理由の一端ではないかと考えられます。意味の上では「雪が降って積もる」と分解できるのに、分解した形が使われにくいのも、拍の収まりの良さが働いているように見えます。
内部をもう少し細かく見ると、七つの拍のどれもが子音と母音の組で出来ていて、撥音も促音も長音も含まれていません。息の止まる箇所がひとつもない——これは意外に珍しい条件です。読み下すあいだ音が途切れないので、降り続けるという現象そのものと、口の動きが並走する。試しに「積もった雪」と言い換えてみると、促音のところで一度息が詰まり、動きが止まった感じが出ます。同じ景色を指しながら、片方は継続を、もう片方は結果を、音の側からも運んでいる。
子音だけを並べ直すと、濁点がひとつも現れません。f・r・ts・m・r・y・k。擬音語や擬態語の研究では、濁音が重さや大きさ、粗さの印象を伴うことがしばしば指摘されます。試しに一箇所だけ濁らせてみる。ぶりつもる、ずりつもる。実在しない語なのに、泥や土砂の気配が混ざりはじめる。母音の並びは u・i・u・o・u・u・i で、口をすぼめて出す狭い母音の u が四回を占めます。開いて響く音がほとんどないぶん、こもった持続の感じが残る。白さを支えているのは色の語だけではない——書き手が無意識に選んでいるのは、意味の適切さだけではないのかもしれません。ちなみに、日本語の複合語では後ろの要素の頭が濁ることがよくあるのに、この末尾の二拍は決して濁らない。ヤ行の音が有声と無声の対立を持たないため、濁らせようがないからです。偶然に見える清らかさが、音韻体系の側から保証されている。
雪の降る様子を写す語として「しんしん」があります。ところが雪は、降っているあいだほとんど音を立てない。聞こえない現象に音の形をした語をあてているわけで、これは鳴っている音をなぞる擬音語ではなく、静けさそのものを写した擬態語に近い働きをしています。しかもこの語も清音だけで出来ている。雨の側を見ると事情が違って、ざあざあ、ぱらぱら、ぽつぽつと、実際に鳴る音をなぞった語が並び、濁音も普通に混ざります。関連語まで広げると、ふぶき、みぞれ、ぼたんゆきはいずれも濁音を含み、荒れ、湿り、重さの印象を運ぶ。こなゆき、ささめゆき、あわゆきは清音が優勢で、軽さと細かさの側に寄る。同じ結晶を指しながら、語の音のほうが先に、粒の大きさと落ち方を伝えてしまう。
七拍という長さは、置き場所を選びます。文頭に主語として置けば重く、後続を短く保たないと釣り合いが崩れる。文末に体言止めで置けば、拍が伸びきったところで文が終わるため、余白が長く残ります。前に修飾語を足していくと全体の拍数が増え、音の流れは緩んで、緊迫した場面には向かなくなる。だから改稿で一語を差し替えるときは、意味の近さだけを頼りにせず、声に出して拍を数えてみるとよい。ふぶき、と書き換えた瞬間に、静かだった窓は鳴りはじめます。