演奏会の批評、書の講評、工芸品のカタログ。この語が集まっている場所を並べてみると、共通点がすぐに見えます。どれも、見る側が評価を下している文章です。作者が自分の作品にこの語を使うことはまずない。使えば自賛になるからで、つまりこの語は最初から、評価する者の位置を含んで運ばれている。語義よりも先に、視点が入っている。
字の成り立ちも同じ方向を指します。「典」は規範、より古い書物、依るべき先例。「雅」は正統とされる様式で、宮廷の音楽や詩の系統と結びついてきました。合わせれば、基準に正しく従っていることを褒める語になる。天然の美しさを言う語ではありません。習得された美、あるいは受け継がれた作法の美です。生まれつき整った顔立ちにこの語を当てると、どこか座りが悪いのは、そのためだと思います。対義の側を考えると、性格がもう少しはっきりします。反対に置かれるのは粗野や無骨ではなく、新奇のほうです。粗いものは基準に届いていないだけで、同じ物差しの上にいる。新しすぎるものは物差しそのものを外れている。だからこの語は、洗練の度合いを測っているように見えて、実際には所属を測っている。二字の音読み漢語であることも効いていて、やわらかい和語の言い換えと並べると、同じ内容を指しながら文の温度が違う。硬い語は評価を下す側の距離を保ち、和語は近づく。どちらを選ぶかで、語り手と対象の間の椅子の位置が動きます。
同じ語でも、台詞の中に置けば事情は変わります。典雅ですね、と登場人物に言わせたとき、評価の出どころは文の中で明示され、責任はその人物が引き受ける。読者は評語の中身より先に、そう言える立場にいる人物のほうを見る。稽古事を仕込まれた者、道具を商う者、格を値踏みして暮らしてきた者——口にした瞬間に、その人物の職歴と育ちが半分ほど露出します。しかも、褒められた側がどう受けるかで、二人の関係まで測れてしまう。素直に礼を返すのか、褒め方の古さに苦笑するのか。返し方ひとつで、その場の格付けを誰が握っているかが決まります。褒めた側が上位に立つとは限らない。評語は台詞の中でなら、対象を描くためではなく、対象を見ている二人を描くために使えます。
地の文へ移すと、同じ語が別の仕事を始めます。語り手が批評家の椅子に座る。三人称の視点人物が誰かの所作をこう感じるとき、その人物は基準を知っている者として提示されます。稽古を積んだか、そういう家に育ったか、少なくとも良し悪しを見分ける訓練を受けている。書き手にその自覚がないまま置かれると、人物の履歴と語彙が食い違い、読者は理由の分からない違和感だけを受け取る。格の高い評語は、それを口にする人物だけでなく、それを感じ取る人物にも相応の履歴を要求します。持たない者の視点に置かれた一語だけが、支えのないまま残る。
否定の側から使うと、この事情はもっと露わになります。典雅とは言えない、と書けば、書き手は基準の存在を認めたうえで、対象がそこに届いていないと告げている。褒めるときより、物差しの輪郭が濃く出ます。逆に、ひとつの場面に同じ方向の評語を重ねると、読者は対象ではなく語り手の語彙のほうを見はじめる。優雅で、上品で、典雅で。判定を三度繰り返しても像は精密になりません。増えるのは判定の回数だけで、評語は足し算では強くならないからです。読者が数えているのは評語の数ではなく、評語が支えられている具体の数のほうです。一場面に一つだけ置き、残りは対象の側の具体で支える。評語の数を減らすほど、残した一語の格が上がる。
では手垢を落とすにはどうするか。素直な答えは、依るべき「典」を作中に一つ実在させることです。何に似ていて美しいのかを示す。ところがここで引っかかります。基準を明示すれば、文章は説明的になる。この語のいちばんの弱点は、書くと同時に説明が始まってしまうことでした。褒めているのに、褒める根拠を並べ立てる文になる。
折り合いは、基準を場面の中ではなく、人物の記憶の中に一行だけ置くことで付きます。祖母が茶碗を置いたときの手の高さ、寺の襖絵で見た衣の線、稽古場で何度も直された背中の角度——過去の一場面を短く挟んでおけば、目の前の所作はその記憶に照らして測られ、評語は根拠を持ちます。しかも記憶は説明ではないので、地の文の速度を落としません。逆に、そうした一行を持たない場面でこの語だけを置くと、何にも照らされないまま宙に浮く。褒め言葉としては通じても、描写としては何も見えていない。基準のないところで正統は名乗れません。