資格試験の受験要項を読んでいると、注意書きの列のなかに、一行だけ語調の違う文が混じっていることがあります。本人確認は厳格に行います。前後は淡々とした手順の説明なのに、その一行だけが少し身構えている。書いた側が、ここは動かせない線だと宣言している合図です。同じことを「きちんと確認します」と書き換えると、線が線に見えなくなる。二字の漢語が置かれる場所には、たいてい、譲れない境界がある。書式の全体が丁寧語でできている文書のなかで、この語だけが敬語の層をすり抜けて、規則そのものの声で話しています。
では、大きな日本語のコーパスを引いて、この語の直後に現れる名詞を頻度順に並べたら、何が出てくるか。手元に集計があるわけではありませんが、予測は立てられます。おそらく上位には、規則、審査、管理、区別、適用、運用といった制度側の語が並ぶ。父やしつけといった生活側の語も入るでしょうが、重心は制度のほうに寄るはずです。同じ意味領域の和語で同じことをすれば、顔ぶれは変わる。自然、寒さ、状況、目つき——身体と環境の語が上位に来る。予測が当たるかは実際に数えないと分かりませんが、予測が立てられること自体が、この語について何かを語っています。
語には、それが使われてきた文体の層があります。漢語は行政文書や法令、学術の文脈で用途を広げてきた経緯があり、その履歴が共起の分布に残る。共起は意味だけで決まるのではなく、どの種類の文書に載ってきたかという歴史でも決まる——だから意味のよく似た和語と漢語のペアが、意味論の上ではほとんど重なりながら、分布の上ではきれいに分かれることがあります。計量的な手法がここで役に立つのは、この分離が話者の内省では言い当てにくいからです。近いと感じている二語が、実際の文章では別々の場所にしか出てこない。
ただ、分布の分離をそのまま意味の差として説明するのは危うい。「厳格な父」という言い方は普通に成立します。制度語ばかりが隣に立つわけではない。ここで起きているのは、家庭という場を制度として見立てる比喩ではないか——父が規則の執行者として描かれるとき、この語が呼ばれる。そう考えると、例外に見えたものがレジスターの説明を壊すのではなく、比喩がどの経路を通ったかを教えていることになります。分布の外れ値は、ノイズではなく写像の証拠であることがある。
否定の側を見ると、輪郭がもう一段はっきりします。厳格でない、という言い方は、作れないわけではないのに、ほとんど使われません。同じ内容を言うとき、日本語は別の語彙を持ってきます。甘い、緩い、大雑把。程度の反対側に、語形の否定ではなく、まったく別の語が座っているわけです。対義の側が語形の否定で埋まる語と、別語彙で埋まる語がある——この差は、実際の文章を数えれば分布として見えてきます。そして別語彙で埋まっている場合、その語はたいてい評価の色を帯びている。甘いと言うとき、話者はすでに立場を選んでいます。制度の内側に住むこの漢語に対して、その否定側は、制度を外から採点する語彙になっている。同じ目盛りの両端が、別々の話者のものだということです。制度は自分の運用を厳格と呼び、外にいる者はそれを窮屈と呼ぶ。両者は同じ手順を指しているのに、共起する語がまるで違うので、コーパスの上では別の話題として分かれてしまいます。
もう一つ、頻度そのものの性質を入れておきます。語の出現頻度は極端に偏る。ごく少数の語が全体の大半を占め、大多数の語はごく稀にしか現れない。順位と頻度の関係についてのこの経験則は、多くの言語で観察されています。共起の分布も似た形をしていて、上位の数語で大半を占め、あとは長い裾になる。だから「よく一緒に使われる語」の実体は、たいてい数語しかない。書き手が語感として持っているのもその上位数語で、裾にある珍しい組み合わせは、思いつかないから使われず、使われないから裾に留まり続けます。
書くうえでの余地は、そこに生まれます。上位の組み合わせをそのまま使えば読みやすい代わりに、既視感も一緒に付いてくる。裾から拾えば新しく見える代わりに、外れすぎれば誤用になる。妥当なのは、名詞のほうは上位から選び、その周りの描写を上位から外すやり方でしょう。この語を制度の文脈に置いたうえで、執行される側の具体を制度の語彙以外で書く。分布に逆らうのは、一文に一箇所でいい。