同じ千平方キロメートルでも、そう呼べる土地と呼べない土地があります。山脈や大河の流域はそう呼ばれ、同じ面積の埋立地や工業団地はそう呼ばれない。物理量が同じで語の適用可否が分かれるとき、その語の意味には物理量以外の成分が含まれています。ここが「広大」との分岐点です。広大は測定の語で、地図と数値だけで決まる。もう一方は測定では決まらない。意味論でいえば、両者は指示対象の集合が重なっているだけで、意味の焦点が別の場所にある。
典型例を並べると、焦点の在処が見えてきます。連なる峰、河口近くの大河、雲の海、地平まで続く草原。これらに共通するのは、一望はできるが端が見えないという知覚上の条件です。視野には収まる、しかし視野の枠を情報が溢れている。この条件が効いている証拠に、実際には桁違いに大きい対象——たとえば銀河系そのもの——を素朴にこの語で呼ぶと、どこか座りが悪い。大きすぎて視野の中に置けないものは、この語のプロトタイプから外れます。大きさそのものではなく、大きさと視野の比が意味を決めている。
上位下位の関係も素直ではありません。上位語をたどれば「大きい」に行き着きますが、大きいものが自動的にこの語の下位に入るわけではない。廃棄物の山は大きいけれど、そう呼ぶと皮肉になります。つまり記述的な意味と評価的な意味が分離できない形で組み込まれている。こうした語は、否定形にしたときの振る舞いも独特です。「大きくない」は単なる測定の否定ですが、この語の否定は、規模の否定なのか評価の否定なのか、文脈がなければ決まらない。評価成分を含む語の否定は、必ず二通りの読みを生みます。
さらに、観察者の位置が意味に組み込まれている点が見逃せません。同じ渓谷でも、航空写真として上から見れば広大で、谷底から見上げれば別の語がふさわしくなる。前者は俯瞰する視点、後者は包み込まれる視点です。見る者が「小さい側」に立っていることが、この語の使用条件に含まれている。だから人物を一切書かずに風景だけを描いた地の文でこの語を使うと、語が勝手に視点人物を要求します。誰が小さいのか、と読者が無意識に探しはじめる。
もうひとつ、空間から時間への転用があります。音楽をこの語で形容することがありますが、そこで大きいのは面積ではなく、主題が展開しきるまでの時間の長さ、あるいは音域の広さです。空間の語彙が時間の構造に写されている。この転用が成立するのは、先ほどの「視野に収まりきらない」という条件が、時間軸でも同じ形で再現できるからでしょう。一度に把握できる量を超えている、という一点だけが移されている。
原稿での使い方は、この条件から逆算できます。人物を先に小さく置く。稜線の位置と、そこまで歩くのに要する時間を書く。そうして視野と身体の比が読者に渡ったあとであれば、語を置いても置かなくても、規模は伝わります。逆に、比を作らずに語だけを置けば、読者は書き手の感嘆を受け取るだけで、自分の視野には何も広がらない。測れないものを扱う語は、測れるものを先に並べて初めて働きます。