壮絶な人生、という言い方に少し引っかかります。使われる場面はたいてい、苦しみが長く続いた生涯で、そこに勇ましさや快活さは含まれていません。ところが字のほうを見ると、壮は盛ん、勇ましい、意気が高いという方向の字で、悲惨さとは結びつかない。字面と用法がずれている。ずれているのに誰も困っていない、という状態のほうが気になります。読み手は字を読んでいるのに、字の意味を使っていない。
二字の漢語は、二つの成分がそれぞれ役割を持ちます。絶は、絶景、絶大、絶佳のように、程度が極まっていることを示す成分として働く。壮のほうは意味の中身を担う。組み合わせれば、勇壮さが極まった状態になる——実際、この語の中心的な使われ方は長らく戦いや最期の場面にありました。現在の用法で生きているのは、明らかに絶の側だけです。極まっているという情報だけが残り、何が極まっているのかを言っていた部分が抜けた。抜けた場所に、文脈のほうから悲惨さが流れ込んでいる。
片側だけが生き延びるという事態は、この語だけの事故ではないようです。絶という字そのものが、先に同じ道を通っています。もとは糸を断つことを表した字だとされ、断絶、絶交、絶命のように、切れることを言う用法をいまも持っている。ところが絶景や絶大では、何も切れていません。他と隔たって並ぶものがない、という言い方を経由して、隔たりの大きさだけが取り出され、程度の標識に転じたと考えられています。切断から隔絶へ、隔絶から極大へ。意味の中身を捨てて目盛りの役へ回るという移動を、この字は熟語になる前に済ませていた。成分の側にもとから備わっていた性質が、組み合わせの中でもう一度現れただけ、という見方ができます。
こういう変化は意味の漂白と呼ばれますが、漂白という比喩は実態と少しずれています。色が全体に薄くなるのではなく、二つの成分の片方だけが抜けて、残った片方は逆に濃くなっている——程度を示す部分は薄まるどころか、この語の主成分になった。変化を一つの方向で言い切れないところが、二字漢語の意味変化を見るときにいつも面倒なところです。
抜けた成分が完全に死んだのかどうかは、隣の語と並べると確かめられます。凄絶は同じ絶を持ち、違うのは凄の側だけ。凄は凄惨、凄涼のように、冷たさや寒々しさの方向を持つ字です。この差は今も効いていて、凄絶な美しさという言い方は成り立つのに、壮絶をそこへ置き換えると座りが悪くなる。美しさに極まりを付けるとき、冷たさは通るが力強さは通らない。抜けたはずの成分が、どの名詞と組めるかという選び方のほうに残っている。意味の中心からは退いたが、共起の制限としては生きている、ということになります。
話者の位置についての制限もあります。あれは壮絶だったと言えるのは、たいてい外から見ていた人で、当人が自分の生涯をそう呼ぶことは少ない。苦しんだ本人が一人称で使えば、たちまち自己劇化に傾きます。程度を表す語がみなそうだというわけではありません。大きい、重い、長いは、自分のことにも他人のことにも同じ顔で使える。評価の高さを含む語だけが、判定する人を対象の外側へ押し出します。形の側にも偏りがあって、この語は連体と述語の位置にはよく現れるのに、様態を言う副詞の位置にはめったに立たない。極まっているという情報は出来事の全体に掛かるもので、動作のやり方に掛けられるものではないからでしょう。外から全体を見渡せる位置にいなければ、そもそも上限の判定は下せない。判定の権利がどこにあるかという条件が、語の使える形のほうにまで及んでいることになります。
もう一つ、程度を表す語には名詞のような分類の階層がありません。動物の下に犬がいるという形の上下関係を作らず、かわりに一本の尺度の上に位置として並ぶ。この語が指しているのは、その尺度の上限に近い端点です。端点を指す語は比較と相性が悪く、より壮絶な、という言い方はどこか落ち着かない。上限より上はないからです。実際にはそう言われますが、そのときは絶対的な端点ではなく、その場かぎりの相対的な位置に読み替えられている。ここから実務上の帰結が出ます。端点語は繰り返すと端点でなくなる。一つの作品で二度使えば、二度目が一度目の効力を削り、三度目には尺度そのものが伸びて、読者は上限を上へ動かします。使うなら、周囲の語を意識して下げてから、一度だけ置く。