辞書の見出しでは、漢字の気障と仮名のきざが並ぶことが多くあります。同じ語でも、紙面にどちらで立たせるかで読者の距離が変わります。漢字は語源の気配——気が障る、というような分解の残像——をわずかに戻し、仮名は音としての軽薄さや口語の嘲笑を前面に出します。創作の地の文で漢字を選べば評価がやや分析的に見え、会話で仮名を選べば吐き捨てに近くなります。表記は意味の外装ではなく、嘲りの位相を選ぶスイッチです。スイッチを雑に切り替えると、読者は語義より文字面の揺れに注意を取られます。注意の取り違えは、嘲りの精度を落とします。
送り仮名やルビの問題もあります。気障と書いてきざと読ませるのは安定していますが、初めて見る読者には別読みの誤読リスクがゼロではありません。誤読を嫌う媒体では初出にルビを振ります。振る行為そのものが、語が常用の中心から少し外れていることを示します。常用漢字表の議論を持ち出すまでもなく、日常の入力では変換候補の並びが表記を誘導します。漢字変換が先に出れば漢字が増え、かな入力のまま確定すれば仮名が増えます。テキストの歴史は、制度だけでなく入力装置にも左右されます。入力装置の癖まで含めて、表記史は現在進行形です。進行形の表記を、作品内では一度方針として固定する必要があります。
第三の表記としてカタカナがあります。キザ、と書くと、語が標本のように括り出されます。カタカナは外来語だけでなく、俗語や生物名、擬音を扱う棚でもあり、そこに置かれた和語は日常から一段浮いて見えます。批評的な地の文で人物の型を名指すとき、あるいは若い話者が茶化して使うとき、この浮きが働きます。三つの表記が使えるということは、嘲りの距離を三段階に刻めるということです。刻めるのであれば、刻む基準を先に決めておきます。
字面の重さも無視できません。障の一字は画数が多く、縦組みの一行の中で黒く沈みます。漢字二字が並ぶと、短い語のわりに紙面での占有感が強くなります。軽薄さを嘲る語が、字面では重い——この齟齬が、漢字表記を分析的に見せる一因かもしれません。語源については、気に障る、という句からの縮約とする説などが挙げられますが、確定しているわけではありません。断定できない以上、漢字の分解に寄りかかった説明を地の文に書くのは避けたほうがよいでしょう。表記は選ぶけれども、語源は語らない。当て字めいた語を扱うときの、安全な距離の取り方です。
類語の気取った・芝居がかった・歯の浮くようなは、それぞれ態度・演劇性・生理的嫌悪に寄ります。気障ときざは、その中間で過剰な演出への軽蔑を短く運びます。短さゆえに、表記の差が相対的に目立ちます。同じ段落で漢字と仮名を混ぜると、統一感が崩れて著者の迷いが透けます。迷いを人物に負わせるなら有効ですが、地の文の方針としてはどちらかに寄せたほうがきれいです。寄せたうえで、引用や手紙の中だけ別表記にする、という二層も使えます。二層は、誰の文字かを示す装置になります。装置として使うなら、切り替えの回数は最小限にします。
歴史的仮名遣いや旧字の話を無理に重ねる必要はありません。いま必要なのは、嘲り語を書くときほど表記を雑にしない、という実務感覚です。注意を内容へ戻すには、初出の表記を決め、以降を固定し、必要なら一度だけルビで音を確定します。確定した音のうえで、香水の匂いが鼻につくような過剰さや、舞台俳優めいた身ぶりを具体で足します。表記が土台、具体が家です。土台が揺れると、どれだけ精巧な嘲りも傾いて見えます。傾かない嘲りは、表記の選択から始まっています。選択を先に決めた作品は、嘲りの音と意味を同時に制御できます。