この直喩を英語へ移そうとすると、訳者はまず二つのことを決めなければなりません。一つは何を darkness と呼ぶか、もう一つは、何が似ているのかを訳文で言うかどうかです。後者のほうが厄介です。原文は、似ている点を一言も述べていないからです。決めないまま訳すことができない、という一点に、この言い回しの特徴がほぼ集約されているように思います。
英語の直喩は比較の軸を明示する形式を持っています。as dark as night と言えば、dark という軸が文中に置かれている。like を使う場合でも、比較対象が具体物であれば、読者は共有された特徴を推測しやすい。さらに英語には pitch-dark のような固定した強意表現があり、暗さの程度を語彙そのものが引き受けます。ところが日本語のこの言い回しは、軸を空欄のまま残します。闇のような沈黙、と書いたとき、闇と沈黙のどこが重なるのかは書かれていない。深さなのか、境界のなさなのか、音を吸ってしまうことなのか。文は判断を保留したまま先へ進みます。
語彙の側も一対一では対応しません。英語の darkness は状態を指す抽象名詞で、the dark と定冠詞を付けると場所寄りに傾きます。日本語のこの名詞は、その両方を一語で兼ねている。だから訳す段階で、状態として訳すか領域として訳すかを決めなければならず、決めた時点で原文にはなかった限定が入る。訳しにくさの所在は、たぶん比喩そのものではなく、この分節の粗さの違いのほうにあります。日本語側では、粗いままにしておけることが利点になっている。
翻訳研究には、訳文は原文より説明的になりやすいという指摘があります。明示化と呼ばれ、原文で省かれていた接続や前提が、訳す過程で言葉として補われる傾向を指します。なぜそうなるのかについては複数の説明が提案されていて定説を見ないようですが、傾向そのものは各国語の対訳を並べれば観察できます。軸を書かない直喩は、この傾向が最も働きやすい場所でしょう。訳者は空欄の前で立ち止まり、読者が埋められないかもしれないと考え、一語だけ補う。補われた一語は誤訳ではありません——ただ、原文が読者に渡していた作業を、訳文のほうが先に済ませてしまっている。しかも補ったかどうかは、原文と並べない限り読者には見えません。訳文だけを読む人にとって、その一語は最初からそこにあったことになります。
自分の言い分に反例を出しておきます。軸を明示しない直喩は英語にもあります。like a stone、like a dream。珍しくもない。ですから日本語だけが特別に曖昧なわけではありません。ただ、頻度と後始末が違うようです。英語では抽象名詞を比較対象に取ったとき、直後や次の文で軸の説明が付くことが多い。日本語ではその説明を省いたまま置き去りにできる——そしてその置き去りが、修辞として許容されている。日本語の側でも、接尾の選び方で含みは動きます。めいた、じみた、と付ければ評価の色が乗り、のような、はほとんど色を持たない。色を持たないぶん、空欄が大きく開く。
逆向きに考えると、日本語の書き手が受け取っている自由の大きさも見えてきます。英語の as dark as night を日本語へ移すとき、「夜のように暗い」と軸ごと持ち込むこともできます。ただ、そう書いた一行は、日本語の散文の中では説明が一つ多い文に見える。同じ情報量が、片方の言語では標準になり、もう片方では過剰になるわけです。過不足は言語そのものの内側にあるのではなく、読者が引き受けている分担の差のほうにある。日本語の読者は、軸を自分で立てることに慣れています。慣れているぶん、先回りされると手持ち無沙汰になります。逆に、軸を明示する言語の読者へ日本語から訳すときは、空欄をそのまま渡せば不親切に見え、埋めれば説明的に見える。どちらを選んでも何かを損なう地点があり、翻訳の議論はたいていそこで止まります。
そう考えると、この表現の働きどころも見えてきます。読者が軸を埋めるからこそ機能している。しかも埋め方が一つに定まらないので、同じ一行が読者ごとに違う像を結ぶ。だとすれば、書き手がやってはいけないのは軸を後から説明することです。闇のような沈黙、何を言っても吸い込まれてしまう、と続けた瞬間に、読者の作業は奪われ、比喩は例示へ格下げされる。訳しにくさは欠陥ではなく、この言い方が読者に仕事を委ねている証拠のほうだった。委ねたものは、書き手の側で回収しない。