あきらか、ほがらか、なめらか、やすらか、たからか、きよらか。並べてみると、ある共通した性格が浮かんできます。どれも状態を表し、どれも「らか」という部分が語の後ろに付いている。前の部分を取り出せば、あき、ほが、なめ、やす、たか、きよ——単独で使えるものもあれば、この形でしか残っていないものもある。この系列に、いま扱っている語も属しています。語幹にあたる部分は「やわら」で、そこに状態を示す「らか」が接続している、という分解になります。
分解した「やわら」を手がかりに周囲を見渡すと、別の語族が見えてきます。やわらぐ、やわらげる。痛みがやわらぐ、態度をやわらげる。物の性質を言う語と、感情や苦痛の鎮まりを言う語が、同じ部分を共有している。同源とみられており、意味の広がり方としても無理がありません。ただし、どちらが先だったかは慎重に扱うべきところです。物の硬さの話が先にあって、そこから心の話へ比喩的に広がったのだと説明したくなるのですが、その順序を証拠から確定するのは難しい。古い時期には両方が未分化だった可能性も残ります。
比喩の方向を決めつけたくなる誘惑には、注意が要ります。身体的な経験が抽象を支えるという説明は強力で、たいていの語にそれらしく当てはまってしまうからです。当てはまりすぎる説明は、説明していないのと同じことがある。この語について言えるのは、物性と情動が同じ語根の下にいまも同居している、という事実のほうで、その同居がいつどちらから始まったかではありません。そして書き手にとって有用なのは、まさにその同居のほうです。
「やわら」という語幹は、意外な場所で単独のまま生き延びてもいます。武術の古い呼び名がそれで、柔術や柔道の系統は、近世まで「やわら」と呼ばれることがありました。ここでの意味は、掴んだときの感触ではありません。相手の力に逆らわず、受けて流し、向きを変える技法の総称です。柔よく剛を制すという言い回しが同じ発想を短く言い表しています。語幹が名詞として独立したとき、指したのは物の性質ではなく方法だった——この一点は、形容詞の側の意味を考えるうえで示唆的です。硬さの反対を意味する語だと思って使うと、この語が本来持っている「加えられた力をどう受けるか」という側面が抜け落ちます。押されたときに戻るのか、沈んだままなのか。その差を書き分けないかぎり、この語は何も報告していないことになります。同じ語根からは、評価が反対側へ振れた形も分かれています。やわな造り、やわではない、と言うときの「やわ」がそれで、こちらは脆さや頼りなさを指し、褒め言葉としては使えません。受け流す強さの名と、壊れやすさの名が、一つの語根から左右へ出ている。
表記にも二本の道が用意されています。常用漢字表は「柔」と「軟」の双方に同じ訓を認めており、どちらを当てても誤りにはなりません。慣用としては、弾力があって力を抜けば戻るものに「柔」、硬さが乏しく形が保てないものに「軟」を当てる傾向があると言われます。軟らかい飯、柔らかい身のこなし。この使い分けが揺れやすいのは、目で見て決められる性質ではないからでしょう。触った者だけが、押した後に戻ってきたかどうかを知っている。字を選ぶ段階で、書き手はすでに、その物に力を加えた誰かの経験を代弁しています。
もう一つ、現代語には二重形が残っています。「らか」で終わる形と、そこに接続する形容詞の形。柔らかな光、柔らかい光——ほぼ同義でありながら、置いたときの座りが違います。前者はやや文章語寄りで、名詞にかかったまま流れていく。後者は口語的で、述語として文末に立てやすい。同じ内容を書いても、どちらを選ぶかで文のリズムが変わり、語り手の距離感が変わる。「らか」の系列に属する語を眺め直すと、あきらか、ほがらか、やすらかのいずれも、外から眺めて認定する語であることに気づきます。当人の内側からの感覚ではない。
触覚の語のようでいて、実は観察者の語である——この一点は、場面を書くときにかなり効きます。手が触れている当人にとって、その感触は硬い柔らかいという二分より前の、名前のない情報です。そこに「らか」の系列の語を当てると、感覚を持った本人ではなく、感覚を外から要約する誰かの視線が入り込む。視点を密着させたい場面では、この語を使わずに、指が沈んだ深さや戻ってくる速さを書いたほうがいい。逆に、語り手をわずかに引かせたいときには、この語ほど自然に距離を作れるものもありません。