「胃にやさしい」という言い方が通じるのは、考えてみると不思議です。胃は配慮を受け取る主体ではありません。感謝もしないし、傷つけられたと訴えることもない。それでも誰も引っかからずに読み飛ばすのは、この形容詞が一つの意味を持つ語ではなく、中心から周辺へ広がった意味の束だからです。多義語の多くは、無関係な意味が偶然同居しているのではなく、一つの中心から少しずつ写しを取るように広がっています。中心を押さえたうえで周辺へ歩いていくと、どこで何が入れ替わったのかが見えてきます。
中心にあるのは人の性質を述べる用法でしょう。この語だけを単独で聞いたとき、多くの読者が思い浮かべるのは人であって、光でも味でもありません。典型の側は文脈なしで想起され、周辺の側は文脈を必要とする。周辺には二つの方向があります。ひとつは感覚の質を述べる方向で、やわらかな光、角の立たない味、肌に障らない生地。もうひとつは負担の少なさを述べる方向で、体に、環境に、初心者に、と続きます。前者は対象の性質を述べていますが、後者が述べているのは対象と相手のあいだの関係であって、対象そのものの性質ではありません。
面白いのは、統語が意味の距離をそのまま映していることです。中心の用法は「やさしい人」と連体でそのまま接続できますが、負担の少なさを述べる用法は「Xに」という相手を必ず要求します。この格を落とすと文が立ちません。周辺へ行くほど支えが必要になるという構造は、意味の遠さが文法の形として観察できる例になっています。感覚の質を述べる用法はその中間で、格を取らずに済む代わりに、修飾する名詞の側が限られる。三つの用法が、それぞれ違う種類の制限を受けている。負担の側の用法は、英語の friendly を含む複合語の訳し方を通じて広まったと見られており、比較的新しい層だという説明がなされることもあります。
そして周辺で起きている最大の入れ替わりは、意味の焦点の移動です。中心の用法では、焦点は行為者の心的態度にあります。相手をどう思っているか。ところが負担の側では、焦点が受け手の被害の少なさへ移り、行為者の心は消えてしまう。洗剤の製造元が繊維を思いやっているわけではありません。同じ語形が、心を語る語から効果を測る語へ、ほとんど音もなく切り替わっている。古い層に目を向ければ、この語の遠い祖先が「身が細るほどきまり悪い」という自分側の感覚を指していたという説もあり、そうであれば焦点は自分の内側から他者の内側へ、さらに他者の外側の被害量へと、二度移動したことになります。
この移動は、台詞を書くときにそのまま効いてきます。ある人物が別の人物を評してこの語を使ったとき、話者が見ているのは相手の心なのか、それとも自分が受けた負担の軽さなのか。前者なら賛辞ですが、後者なら「あの人は私を傷つけない」という報告にすぎず、そこには相手への関心がありません。だから同じ一語が、場面によっては最上級の好意になり、場面によっては静かな見限りになる。どちらの焦点で言わせるかは、語の選択ではなく、その直後に何を続けるかで決まります。相手の何を見てそう言ったのかを一文足すだけで、同じ台詞の温度が反転する。