携帯電話で文字を打っていると、次に来る語の候補が勝手に並びます。あの候補列は、大量の文章から数え上げた並びの統計に、その人自身の入力履歴を混ぜて作られている。つまり候補の順序は、その言語で何と何が隣り合いやすいかの縮図です。この動詞の直前に置かれる語を候補列で眺めると、出てくるのは人の身体か、視線か、寒さのあたり——刃物の名が真っ先に並ぶことは、そう多くないはずです。機械が数えた並びのほうが、書き手が思い出せる並びより正直だという場面は、案外あります。打ちながら候補列を眺めるだけでも、ささやかな調査にはなる。
この動詞の直前に来る語を思い出そうとすると、刃物より先に別のものが並びます。胸を刺す、心を刺す、目を刺す光、刺すような視線、刺すような寒さ。物理的に何かを貫く用例より、何も貫かない用例のほうが、日常の文章では目につきます。ある語がどんな語と一緒に現れるかの分布を共起統計と呼びますが、語の輪郭は辞書の語義よりもこの分布のほうによく現れることがあります。語義は誰かが書いた定義で、分布は実際に使われた履歴だからです。定義は数個の項目で済みますが、履歴は何千という組み合わせの偏りとして残ります。
共起する相手を意味のまとまりで括ると、経路が見えてきます。まず身体の部位。胸、喉、背、指。次に感覚器そのもの。目を刺す光、鼻を刺す匂い。そして心の側へ。胸を刺す、心を刺す。並べ直すと、この動詞の比喩は身体を経由してしか先へ進んでいないことが分かります。実際、「心を刺す」は通っても、「思想を刺す」「制度を刺す」は据わりが悪い。抽象を直接の目的語に取れないという制限が残っているわけです。名詞化した形はもっと露骨で、串刺し、刺し傷、刺し網——どれも物理の側にしか現れません。比喩は連体形と終止形のあたりにだけ溜まっている。針や刃が届く範囲を、比喩の側も越えられずにいる。
「刺すような」という連なりは、それ自体がすでに一つの単位として流通しています。この五文字が出た時点で、後ろに来るものは視線か寒さか痛みのどれかに絞られ、読者は残りを先回りして用意してしまう。先回りできる箇所は、読み手の側でほとんど処理されません——定型は理解が速い代わりに、内側に何も残さない。速さと残り方は交換の関係にあります。だから定型を全廃するのではなく、どこで速さを買い、どこで残り方を買うかを決めることになる。
活用形ごとに相手が違う点も、数えるときには効いてきます。過去形を含む文を集めると、直前には道具と身体部位が寄ってくる。針を刺した、指を刺した。ところが連体形を修飾語として使った文では、相手は視線や寒さや痛みの側へ移ります。受身形はさらに偏りが強く、事件を報じる文体の語彙を連れてくる。共起を数えるときに活用形をまとめて一つの見出しに潰してしまうと、この差は平均のなかに埋もれます。書き手の癖を見たいなら、形ごとに分けて数えたほうが解像度が上がる。分布は語のものというより、語形のものだと考えたほうが実態に近いようです。
結びつきの強さを測る指標には、自己相互情報量のようなものがあります。それぞれの語の単独の頻度から期待される共起回数に対して、実際の共起がどれだけ多いかを見る量です。この値が極端に高い組み合わせは慣用句で、低すぎる組み合わせは意味を成しません。頻度そのものの分布にも偏りがあって、共起相手を多い順に並べると、上位のいくつかが全体の大半を占め、あとは長い裾になります。まだ誰にも使われていない組み合わせは、その裾の側にしか残っていません。読んで手応えのある比喩は、たいてい中間の帯にあります。期待値から少しだけ外れた位置。外し方が大きすぎると、読者は解釈にかかる手間のほうを先に感じてしまいます。手間が像を上回った時点で、比喩は失敗になる。
自分の原稿でこれを見るのは難しくありません。この動詞を含む文をすべて抜き出し、直前の名詞だけを縦に並べる。身体の部位が並ぶか、心と視線ばかりが並ぶかで、その原稿がどちらへ寄っているかは一目で分かります。物理的な対象が一つも出てこないなら、比喩だけが先行して、経路の出発点が原稿の中に存在しないことになる。幅を作る作業は、語彙を増やすことではなく、すでに持っている語の相手を入れ替えることに近い。分布は書き手ごとに違い、その違いが積み重なったものが文体と呼ばれています。