「声をひそめる」という言い方と並べたとき、順序が気になってきます。ひそめる対象として先に選ばれたのは、どちらだったのか。声は他人に届くものです。息のほうは、よほど近くに相手がいなければ届かない。隠すべきものとして切実なのは声で、呼吸まで抑える必要が生じるのは、追ってくる者がすでに手の届く距離まで来ている場合に限られます。とすれば対象は遠いものから近いものへ移動したと考えるのが自然です。裏づけを持たない推測ですが、意味の広がり方としては筋が通る。距離の縮小が、そのまま語の適用範囲の縮小として刻まれている、という読み方もできます。
「ひそむ」は隠れるという自動詞で、「ひそめる」はそれを他へ及ぼす形です。「静まる/静める」「縮む/縮める」と同じ対応で、そこに珍しさはありません。むしろ目を引くのは、他動詞になった瞬間に目的語の席がひとつ空き、そこへ何が座るかという競争が始まることです。声、身、息、そして鳴り。鳴りを潜めるという表現は、もとは音が絶えることを指していたはずですが、現在では活動の休止のほうへ大きく寄っています。近ごろは気配を対象に据える言い方も目にします。気配は音でも呼吸でもなく、他人の側が感じ取る何かです。隠す対象が自分の身体から他人の知覚へ移っているのだとすれば、目的語をめぐる移動はまだ終わっていない。
ここで引っかかるのは、連用形に「て」がついた形が、動作の記述としてよりも、後続する動詞を修飾する副詞句のように振る舞って見えることです。息を潜めて待つ。息を潜めて見守る。息を潜めて機会を窺う。この三つで実際に描かれているのは待つ・見守る・窺うのほうで、前半は姿勢の指定に退いている。動詞句が副詞句へ落ちていく現象そのものは珍しくなく、「思わず」や「あえて」が動詞から副詞へ固まった過程と同じ方向を向いています。
ただ、そう言い切ってよいかは怪しい。息を潜めて待った、という文は、呼吸を抑える動作と待つ動作が同時に起きたと読むこともできます。副詞化が完了しているなら呼吸のイメージは消えているはずですが、消えていない。この形を見た読者は、いまでも胸のあたりの締まりを感じ取ります。摩耗しているのに本義が手触りとして残っている——途中の段階にある、というのが正確なところでしょう。呼吸が、意識すれば操作できるのに放っておけば勝手に続く、という半端な位置にあることも効いているはずです。完全な随意運動でも不随意運動でもないものを対象に取ったために、語のほうも中間で足踏みしている。
そう考えると、使いどころは絞られてきます。摩耗した側に頼れば、この形は「静かに」という副詞の代用にしかならない。まだ残っている本義のほうを起こしたいなら、呼吸に関する別の具体を近くに置く必要があります。喉の渇き、肋骨の内側にたまる圧、こらえきれずに吐き出す瞬間に喉が鳴る音。そういう一語を添えたときにだけ、古びかけたこの形は身体の側へ引き戻される。逆に何も添えなければ、読者は迷わず副詞として処理し、そのまま次の動詞へ進んでいきます。どちらの扱いを選ぶかは書き手の自由ですが、選ばずに使えば、必ず摩耗した側に倒れる。