朗読の収録では、原稿と時計が同時に机の上にあります。読み上げの速さは、聞き取りやすさの目安として一分あたり三百字前後と言われることが多く、その前提で尺を割り振っていく。ところが実際に声にしてみると、字数どおりには収まりません。漢字で詰めた行が早く終わり、仮名の続く行が伸びる。字を数えていた耳が、途中から拍を数えはじめる瞬間があります。文章の長さは、目には字として、耳には拍として届いている。二つの単位が食い違う場所に、描写の速度の問題は集まってきます。
数えてみると八拍あります。ほ、お、を、あ、か、ら、め、る。同じ生理現象を漢語一語で述べれば、せ、き、め、ん、す、る の六拍で済む。撥音も一拍に数えるのが日本語の勘定なので、この差は二拍。たった二拍だと言いたくなるところですが、会話が短く応酬している場面に置いてみると、差ははっきり出ます。地の文の一行が長くなるぶん、返事が来るまでの間が伸びる。読者はその間を、間として読む。
日本語の韻律は二拍のまとまりを基本の単位とすると考えられていて、標語や俳句の据わりのよさも、五拍七拍をこの単位でどう割るかで説明されることが多い。八拍はきれいに四つに割れ、六拍は三つに割れる。割り切れ方の違いよりも、ここで効いているのは単純にまとまりの数です。四つ分の時間を使うか、三つ分で終えるか。テンポの速い場面で四つ分を使えば、その一行だけ時間の流れ方が変わる。速度は文の意味ではなく長さで決まる部分がある。逆に言えば、意味の上ではどれだけ劇的な事態でも、拍数が短ければ場面は減速しません。
母音の並びにも、この句は偏りを持っています。八拍を順に取り出すと、o、o、o、a、a、a、e、u。同じ母音が三つずつ続いてから、最後の二拍で別の母音へ抜ける形です。日本語の母音のうち口の開きが大きいのはアで、オがそれに次ぐとされますから、前半の六拍は開いた音がひたすら並ぶことになる。漢語のほうは e、i、e、N、u、u で、開きの大きい母音を一つも含みません。同じ現象を述べていながら、一方は口を開け続け、もう一方は口を閉じたまま済ませる。音読して前者が遅く感じられるのは、拍が二つ多いことに加えて、開いた母音の連続が調音そのものを緩めるからでもあります。もっとも、母音の開きが速度を決めるという説明は、それだけでは足りません。開いた音を並べても、短い語なら速く終わってしまう。効いているのは拍の数と母音の質が同じ方向に働いていることのほうで、この句はたまたま両方が遅い側に揃いました。二つの要因が別々に測れるからこそ、片方だけを動かす書き換えも設計できます。
拍を数える前に見ておくべきものが、もうひとつあります。八拍のうち三拍目は格助詞で、つまりこれは一語ではなく句です。句であることの帰結は二つあります。ひとつは、内側に語を差し込めること。頬をわずかに赤らめる、頬をゆっくり赤らめる、と挿入したぶんだけ拍が伸び、動作にかかる時間もそのぶん長く読まれます。漢語一語のほうは内側が閉じているので、修飾は外側からしか掛かりません。もうひとつは、主語と目的語の関係が文面に出てしまうことです。赤らめるは他動詞で、その目的語は自分の頬になる。自分の身体の一部を自分で操作した、という構文がそこにできあがっています。
引っかかるのはこの点です。血管が広がって顔の色が動く過程は、当人の意志では止められません。止められないものを他動詞で書けば、構文の側だけが動作主を立てていることになります。日本語にはこの動詞に対応する自動詞があって、頬が赤らむ、と書けば主語は頬に移り、当人は現場から一歩降りる。同じ現象に自他の二形が用意されていて、片方は本人にやらせ、もう片方は身体に勝手にやらせる。漢語の一語は自動詞で、主語は人のまま、身体部位は文面に出てきません。三つの言い方は、この出来事を誰の仕業として書くかで分かれています。
だとすると、選択の基準は語感ではなく主導権の所在になります。当人が抑えようとして抑えきれなかった場面なら、他動詞の句が合う。抑える主体がいることを、構文のほうが先に示してくれるからです。反応が先に出てしまった場面なら、自動詞へ落として身体だけを動かす。要約で足りるなら漢語一語で済ませ、八拍ぶんの時間を場面に与えない。原稿を音読して据わりが悪いと感じるとき、たいていの犯人は語彙の選択ではなく、その一行で人物にどれだけ主導権を渡すかを決めないまま書いていたことのほうにあります。