名詞に「的」を付けて作った語は、後ろに来る名詞が漢語なら「な」を落とせます。詩的表現、詩的言語。ところが和語だと落ちない。詩的な窓とは言えても、詩的窓は据わりが悪い。線引きは意味の側にはなさそうです。窓が詩に似ているかどうかとは無関係に、語種だけで可否が決まっている。文法の中には、こういう内容と切れた規則がときどき混じっていて、しかも書き手はそれを意識せずに守っている。守れているのに、なぜ守れるのかは説明できない。
「的」は明治期に、西洋語の形容詞接尾辞を訳すために大量に使われるようになったとされます。名詞に付いて形容動詞の語幹を作る、きわめて生産的な仕組みで、今も新語を作り続けている。生産性の高い接尾辞は語基をあまり選ばずに付きますが、その代わり、できあがった語の振る舞いが揃わないことがある——付けられるということと、付けた後にどう使えるかは別の話です。この語は、その揃わなさが観察しやすい例だと思います。語基が二字漢語で、後続にも漢語と和語の両方が来られるため、可否の境目が見えやすい。
「詩の言葉」と「詩的な言葉」を並べると、この一字が何をしているかがはっきりします。前者は所属を述べていて、実際に詩に属している言葉しか指せない。後者は性質を述べていて、詩に属していなくてもかまわない。散文の一行でも、広告の惹句でも、性質さえ認められれば後者で修飾できます。助詞一つの属格が対象の在り処を言うのに対して、接尾辞のほうは対象を集合から切り離し、性質だけを取り出す。だから「詩の朗読」と「詩的な朗読」は指しているものがまるで違う。前者は詩を読み上げることですが、後者は何を読み上げているかについて何も言っていません。語基に一字足しただけで、名詞は所属の記述から評価の枠へ移されます。所属なら台帳を調べれば決着しますが、性質のほうは誰かが認めなければ成立しない。一字の追加で、真偽を確かめる相手が資料から読者へ移っているわけです。
形の面では、ナ形容詞として「詩的だ」「詩的な」「詩的に」まで一通り揃います。ところが使われ方は均等ではない。連体形と副詞形を比べると、体感としては前者に大きく偏る。副詞形も、「詩的に描く」「詩的に語る」は言えるのに、「詩的に走る」は座りが悪い。表現する行為を表す動詞としか組みにくいわけです。修飾できるのは走るという出来事そのものではなく、出来事を言葉で扱う仕方のほうだから、と説明すると辻褄は合う。合いすぎる気もしますが、他の「的」語を並べてみると似た制限がいくつも見つかるので、この語だけの癖ではなさそうです。
副詞形には、もう一段の制限もあります。「歴史的には」「個人的には」「基本的には」のように、「的に」へ「は」を付けて観点を立てる言い方は、この接尾辞の得意な型です。ところが「詩的には」となると急に座りが悪くなる。並べてみると、観点として立てられるのは、対象を眺める角度の名前になっている語基のほうだと分かります。歴史も個人も基本も、どれも見方の名です。詩は見方の名ではなく、性質のモデルとして持ち出されている。同じ接尾辞から作られながら、観点を作る語と性質を述べる語に分かれていて、後者はこの席に着けません。付けられる語基の広さのわりに、でき上がった語が座れる席は狭い。先に触れた振る舞いの不揃いが、ここにも顔を出しています。
述語に立てると別の癖が出ます。「この描写は詩的だ」は自然でも、「彼は詩的だ」は情報が定まらない。人を主語にすると、話し方なのか感受性なのか身なりなのかが宙に浮きます。評価語には、対象の属性を直接指すものと、対象を扱う枠のほうを指すものがあり、この接尾辞で作られた語は後者へ寄りやすい。だから主語には、評価の枠に載せられるもの——作られたもの、書かれたもの——が来ると落ち着きます。人を主語にした文が落ち着かないのは、人が枠ではないからです。
「詩のような」と並べると差がはっきりします。あちらは比較の相手を名指しする形式で、述語にも連体にも自由に立ち、そのつど像を呼び出す。こちらは接尾辞で作られたぶん統語的な席が決まっていて、代わりに文の中で目立たない。人物の印象を書くときに、片方は読者の頭に絵を作らせ、もう片方は分類を渡します。同じ内容を言っているつもりでも、受け取り側で起きることが違う。どちらを選ぶかは、その一文で読者に絵を見せたいのか、そこは通過させて先へ進めたいのかという判断であって、語感の好みではありません。