会議の資料を渡して「詩のような文章ですね」と言われたら、褒められたと受け取る人は少ないはずです。同じ句が、短編の感想として置かれれば賛辞になる。語の意味は変わっていないのに、評価の符号だけが反転している。反転させているのは何か。語の内側をいくら探しても答えは出てきません。辞書に載る語義は両方の場合で同一で、変わったのは語ではなく、語が置かれた場所のほうだからです。だとすると、調べるべきなのは場所の側の条件になります。
語用論では、話し手が守っていると想定される会話の原則を手がかりに、字義の外側にある含みを説明します。必要な量だけ、明瞭に、関係のあることを言う。報告書に求められるのは明瞭さと簡潔さで、詩に許されているのはそれとは別のものです。だから報告書を詩に喩えると、明瞭さの原則が守られていないという指摘に読み替えられる。賛辞が皮肉に転じるのは、対象のジャンルが要求する原則と、比較先のジャンルが許す逸脱とが衝突するときだ、と一応は言えそうです。同じ理屈で、詩に対して「報告書のようだ」と言えば、これも褒め言葉にはならない。衝突は双方向に起きます。
もっとも、符号が本当に宙に浮くのは、文字で読む場合に限られるかもしれません。声で言われたときには、抑揚と間と視線が一緒に届きます。語尾をわずかに伸ばす、言い終えてから半拍空ける、相手の顔を見ずに言う。韻律や身振りは、字義の外側にある態度を運ぶ経路として働き、聞き手はたいていその場で符号を決めてしまう。ところが同じ一文がメールの本文に置かれると、その経路が丸ごと落ちます。残るのは語彙と語順だけです。文字で受け取った褒め言葉が妙に怖いのは、判断材料が減った状態で、読む側が自分の期待に従って空欄を埋めるほかないからでしょう。皮肉の成否を左右しているのは、語そのものより伝達路の細さのほうだと言ってもいい。
ここで引っかかるのは、「〜のような」という形式そのものの弱さです。直喩の標識であると同時に、断定を避ける緩衝材でもある。「これは詩だ」と言い切れば断言ですが、「詩のような」なら、似ているとだけ言って似ている点は挙げない。挙げないぶん、聞き手が自分で埋めます。埋め方は聞き手の側の期待に従うので、話し手は責任を負わずに評価だけを渡せる——皮肉が成立しやすいのは、この責任の預け方のせいでもあります。後から問い詰められても、そこまでは言っていない、と引き下がる余地が形式の中に用意されている。
とはいえ、いつでも皮肉になるわけではない。「詩のような一行だった」と言うとき、対象が短く、切り取られていて、余白を持っているなら、比較の点は聞き手にも見当がつきます。含みが安定するのは、比較の次元が文脈から一つに絞れるときです。逆に対象が長い文章だと次元が絞れず、聞き手はいちばん目につくもの——読みにくさ——を選んでしまう。つまり皮肉は話し手が仕込むとは限らない。次元が余っているせいで勝手に発生することがあり、言った本人が驚く場面もそれで説明がつきます。
応答の側から眺めると、事情はもっとはっきりします。褒め言葉には、礼を述べるという定型の返しが用意されている。ところがこの句には、それがうまく効きません。礼を言えば賛辞として受け取ったことになり、苦笑すれば皮肉として受け取ったことになる。どちらを選んでも、聞き手は自分の解釈を表明したことになってしまう。「どういう意味ですか」と問い返す手も残っていますが、その問い返しは、自分が皮肉を疑ったという事実のほうを相手へ渡します。返答の選択肢がどれも中立でない。その居心地の悪さを作ることこそ、この句の実際の働きなのかもしれません。含みを確定させる作業は、言った側ではなく、言われた側に押し付けられています。沈黙もまた一つの返答になってしまうので、逃げ場はありません。
だから小説の中でこの句を人物に言わせるなら、話者と対象の組み合わせを先に決めることになります。誰が、何について言うか。編集者が原稿について言えば苦言に、恋人が手紙について言えば賛辞に、書いた本人が自分の文章について言えば韜晦になる。句は同じで、置き場所だけが違う。地の文で使う場合は話者が語り手になるので、その語り手が対象をそれまでどう扱ってきたかが、そのまま符号を決めます。短い引用を挟んでから使えば次元は絞れ、絞らずに使えば読者が勝手に絞る。曖昧に見える褒め方ほど、周囲の設計が要ります。