常用漢字表で「幻」の欄を見ると、音にゲン、訓にまぼろしが並んでいます。一字で四拍を読ませる訓というのは、漢字表記のなかではやや負担が重いほうです。読み手は一文字を見て、頭のなかで四拍ぶんの音を立てなければならない。視覚上の一点と聴覚上の四拍が対応していない。この不釣り合いが、ルビの打たれやすさや、文脈によっては仮名書きが選ばれることの理由になっていると思われます。
初出だけに読みを示せば、二度目以降は黒い一字から長い音を復元できる——表記は読者へ一度学習を求め、その後の速度を上げる仕組みにもなります。同じ語でも児童向けの本文、詩、固有名めいた用法では、どこまで読みを委ねるかが変わります。
一方、音読みのほうは単独では立たず、必ず熟語の中に入ります。二字で名詞になり、そこへ「的」が付くと性質を表す語になる。この接尾辞は明治以降に急速に数を増やしたもので、由来については英語の語尾の音を借りたという説と、漢文脈の助字が転用されたという説があり、どちらか一方に決まってはいません。ただ、どちらの説を取るにせよ、名詞さえあれば形容動詞が作れるという生産的な型が近代日本語に据えられた、という結果は動きません。三字の語形は、その型が回った痕跡です。
三字をひとかたまりとして読めるため、後ろに「な」「に」を添えても語幹の字面は変わりません。活用を担う部分が視覚的に外へ出ることで、名詞から性質語へ移った経路も紙面に残ります。
表記が読みを決めない例も、この字のまわりには残っています。「夢幻」は、むげんとも、ゆめまぼろしとも読まれる。振り仮名がなければ、書き手がどちらを意図したのかは字面から確定できません。前者は漢語として速く硬く、後者は和語の連なりとして遅く柔らかい。同じ二文字が、読みによって別の位相へ振り分けられる。表記は音を記録する装置だと考えたくなりますが、この例では記録に失敗していて、それでも実用上は困っていない。
曖昧さを残したくない場面では、ルビが発音だけでなく語りの速度まで指定します。短い音を振れば二字の塊を一息で通過し、長い訓を振れば目が文字の上へ滞在する。
ここで引っかかります。では仮名書きは何をしているのか。漢字は意味を圧縮して視覚的に速く、仮名は音を伸ばして遅い、と整理したくなる。しかし全部ひらがなにすれば柔らかくなるかというと、そうはならない。仮名が続くと語の切れ目が消え、読者は分節に手間を取られて、むしろ引っかかりが増える。速度は字種だけでは決まらず、前後との対比で決まる。単独の規則にはなりません。
そこへ漢字を一つ戻すだけで、「まぼろしのような光」と末尾の境界が明瞭になる。反対に漢字ばかりの説明文へ仮名を混ぜれば、白い部分が呼吸の間になります。柔らかさを字種の属性と決めず、前後の黒さとの差として観察すべきです。開く語と残す語の配分が、文節の見え方を決めます。
残るのは、字面の密度という物理的な事実のほうです。三字の漢字が連なると、行のなかでそこだけ黒が濃くなる。ひらがなの多い和文の地の文では、この塊は視覚的な突起として働きます。読者は意味を取る前に、その一点で目を止めている。同じ内容を仮名まじりに開けば突起は消え、代わりに行が伸びる。表記の選択とは、意味の選択である前に、まず紙面のどこに黒を置くかの選択です。
縦書きでも横書きでも、改行の前後で周囲の余白は変わる。校正時には語だけを眺めず、実際の組版幅で前後の行を見る必要があります——同じ表記でも、置かれた位置によって突起の強さは違うからです。意味を変えずに行を整える作業も、この語の印象を決めています。