同じ日に二度、この語を耳にしたことがあります。一度目は大学の教室で、ある問題が経験的な観測では決着しない種類のものだと説明する文脈。二度目は居酒屋で、黙って天井を見ている同席者に向けられた軽口。どちらも間違った使い方ではありません。ただ、指しているものが重なっていない。専門語と日常語のあいだに断層が走っていて、そのことを両側とも特に気にしていない、という状態でした。
もとをたどれば、この語自体が翻訳の産物です。西周が philosophy の訳語を模索し、当初の案から絞り込んで「哲学」の形に落ち着いた経緯はよく知られています。「哲」には明らかにする、賢いという意味がある。つまり訳語の段階で、この語は日本語の中では最初から借り物でした。学術用語としての厳密な用法も、日常語としてのゆるい用法も、どちらも同じ輸入品から枝分かれしている。だから断層の一方を本家、他方を誤用と呼ぶ根拠は、思っていたほど強くありません。接尾する「的」もまた、近代に大量生産された翻訳語彙の部品で、名詞を形容動詞へ変える便利さと引き換えに、輪郭のぼやけた語をいくつも残しました。
枝は少なくとも三本あります。学術の枝では、経験科学の手続きでは決着しない問いを扱う領域を指す。産業の枝では、経営哲学、打撃哲学のように、方針や信念の体系を指す——ここには問いの含みがほとんどなく、むしろ答えを持っていることが前提になっている。そして日常の枝では、答えが出ない、実利から遠い、深そうに見える、といった印象語として働く。三本目は評価が定まらず、称賛にも揶揄にもなる。同じ三文字が、職場を移るたびに別の仕事をしている。
三本目がこれだけ太くなった事情も、まったくの偶然ではなさそうです。日本の中等教育では、この分野は「哲学」という名の教科としては置かれていません。専門の枝に触れる機会が制度的に用意されていないなら、多くの人にとって最初に出会うのは日常の枝のほうになる。語の意味は、辞書ではなく出会う順序で決まる面がある。もっとも、教科として存在する国の日常語がどうなっているかを私は知らないので、これも確かめずに言い切るべきではないでしょう。
ここでもう一つ引っかかります。断層があるなら、聞き手はどうやって毎回正しい枝を選んでいるのか。おそらく語そのものではなく、共起する語で選んでいます。問題、命題、伝統といった語が近くにあれば学術の枝。創業者、信条、貫くといった語があれば産業の枝。表情、目つき、口調が近ければ日常の枝。手がかりが一つもない裸の文では、読者は最も広い日常の枝に落とす。そう考えると、この語が「なんとなく深い」の意味に流れやすいのは、語の劣化ではなく手がかりの不足の結果です。
小説で扱うときの帰結は具体的です。地の文にこの語を置くと、語り手がどの職場から来たかが露出します。視点人物が学生であれ職人であれ、その人物の語彙としてこの形容が自然かどうかを一度確かめる。人物に言わせるなら、三本のうちどれを使っているかを示す共起語を、同じ段落に一つだけ置く。逆に、どの枝とも決めずに置かれたこの語は、書き手が思考を省略した箇所として読者に見抜かれます。断層は使える。ただし、どちら側に立っているかを自分で知っている必要がある。