原稿に付箋が一枚貼られて戻ってきて、そこに「文学的ですね」とだけ書かれていたとします。この一言が全面的な賛辞なのか、それとも「話が動いていない」の婉曲表現なのかを、その場で判別できる書き手はそう多くありません。書評欄では最上級の評価として置かれ、編集の現場では留保として置かれる。評価語としては珍しい振れ幅で、しかもどちらの用法も間違いではない。この振れは、語の中身が時間の中で二度動いたことの痕跡だと考えられます。
一度目の移動は、土台の側で起きました。漢籍における「文学」は、もともと学問や学芸の全般を指す語で、詩や小説に限定されたジャンル名ではありません。現在この語が担っている意味——虚構の散文と詩を中心とする芸術の領域——は、近代に literature などの訳語として定着したものです。語形はそのままに、中身だけが入れ替わった。訳語にはよく起きることで、「社会」「自然」「権利」なども似た経路をたどったと説明されます。ここで見落とされやすいのは、入れ替わりの結果、語の指す範囲が以前より狭くなったことです。学芸の全体を覆っていた傘が、書きものの一ジャンルを指す看板になった。範囲が狭まった語は、内側で評価の目盛りを持ちはじめます。
二度目の移動は、接尾辞の側で起きます。「的」は本来漢語の助字で、明治期以降に性質や傾向を表す造語成分として急速に増えたとされています。この接辞の働きは、対象そのものではなく、対象に似た性質のほうを指すことです。金属的な音は金属ではないし、演劇的な仕草は演劇ではない。つまりこの造語法は、はじめから本体との間にわずかな距離を作る。褒めるつもりで使った語が、その構造上、「そのものではないが、それらしい」という含みを抱え込んでしまう。距離があるという事実そのものは中立ですが、評価語に使われたとき、距離は減点に読まれやすい。
語の評価的な色が下がっていく現象は、意味の悪化と呼ばれます。ただし「的」の付いた語が一律に下がるわけではありません。「科学的」は今も肯定的な評価語として安定して使われている。両者を分けているのは、評価の基準が語の外側にあるかどうかでしょう。科学的かどうかは、手続きが踏まれているかどうかである程度は確かめられます。文学的かどうかを確かめる手続きは、誰とも共有されていない。基準を外部に持たない評価語は、話者ごとに別の中身を入れられ、入れられた中身が食い違うたびに信用を落とし、やがて皮肉を入れる器として便利になる。悪化とは、語が汚れる現象ではなく、語が空くことで起きる現象です。
だから作中の人物にこの語を言わせるときは、いつの、どの集団の口から出るのかを先に決めておく必要があります。明治末の文学青年が同人誌の合評会で使う四文字と、現在のウェブ連載の感想欄に書き込まれる四文字とでは、褒めている対象が違う。前者はしばしば文語的な語彙や内省の細かさを指し、後者は「進みは遅いが雰囲気がある」を指すことが多い。同じ表記のまま、評価軸ごと入れ替わっている。人物にこの語を口にさせた瞬間、それは作品の時代と、その人物が属する読書共同体の指標になります。褒め言葉として置くのか、逃げ道として置くのか——決めずに置くと、読者は勝手に後者で読みます。