「彼は寒い」と書くと、日本語として据わりが悪くなります。「彼は寒がっている」「彼は寒そうだ」なら通ります。ところが「私は寒い」には何の問題もありません。同じ形容詞が、主語の人称によって使えたり使えなかったりします。語彙の性質というより、文法の側が引いた線です。線があること自体は知られていますが、それがどこまで引かれているのかを確かめていくと、思ったより深いところまで届いています。
感覚や感情を表す形容詞の一群に共通する制限で、平叙文では一人称、疑問文では二人称に限られます。相手に向かって「寒い?」と問うのは自然で、三人称に使うには接尾辞を付けるか、推量の形式を挟む必要があります。「痛い」「嬉しい」「欲しい」も同じ振る舞いをします。他人の内的状態に直接言及することを禁じる仕組みが、語彙ではなく文法の層に組み込まれています。丁寧さの問題ではありません。無礼になるのではなく、非文になる。もっとも、線の引かれ方は一様ではなく、名詞を伴う形にすると制限がゆるみます。「寒い彼」は妙でも、「寒がりの彼」なら通ります。接尾辞を挟むだけで三人称に開かれるということは、制限がかかっているのは語の意味ではなく、言い切りの形そのものだと分かります。同じ内容を、経験として述べるか属性として述べるかの違いに、文法が反応しています。
一方でこの形容詞には、もう一つの顔があります。「今日は寒い」「この部屋は寒い」がそれです。ここでは経験者ではなく環境が主題で、人称の制限は働きません。英語は I am cold と It is cold を別の構文に分けますが、日本語は形容詞を替えず、主題だけを入れ替えます。だから一語文として置かれたとき、環境の記述とも身体の報告とも読めます。曖昧だと言うより、区別を要求していないと言うほうが近い。どちらか決めなくても会話が進むなら、決めない形式のほうが経済的です。実際、部屋に入ってきた人が短くそう漏らしたとき、それが室温の報告なのか暖房を頼む合図なのかは、返される言葉のほうで初めて確定します。窓を閉めれば環境の話として受け取られたことになり、上着を貸せば身体の話として受け取られたことになります。文の側は最後まで態度を決めません。
立ち止まるのはここからです。小説では「彼は寒かった」が通ってしまいます。三人称限定視点の地の文には、語り手が視点人物の内側にいるという約束があり、その約束が文法の制限を上書きします。これを規則の例外と見るか、地の文がそもそも一人称の変形なのだと見るかで、説明の立て方は変わります。後者に立つ研究もありますが、どちらが正しいと決めるだけの材料をこちらは持ちません。ただ、規則が破れる場所にちょうど文学的な約束が置かれている——その対応だけは動きません。
実務としては、この一語が視点の目印になる、ということになります。「部屋は寒かった」は外から、「寒かった」は内からの記述です。同じ場面で混ぜれば視点は揺れます。外側から寒さを書きたいなら、温度でも、白い息でも、指先が動かないことでもかまいません。身体の外に出た証拠へ移せば済みます——感覚そのものを名指さずに、感覚の残した跡だけを書きます。逆に内側から書くと決めたなら、その段落では他の人物の寒さを書けません。制限としては不便ですが、守っているあいだ、読者は自分がいま誰の身体の中にいるのかを見失わずに済みます。文法が先に用意していた線を、そのまま視点の線として使えるということです。