真夏の場面でも、この動詞は使えます。汗の引かないまま、蝉の声の中で、人物が動きを失う。読んでも引っかからない。物理的には気温三十五度の空間で凍結は起きませんが、文としては何の問題もなく通ります。矛盾が生じないどころか、暑さとの落差がむしろ効果を強めることさえある。この素通りぶりから、語の意味がどう組み立てられているかを逆算できそうです。
本来の凍結が持っている要素を分けてみます。低温であること、液体が固体に変わること、動きが失われること、そして元に戻すには外から条件を与えねばならないこと。比喩として使われる場面で、このうちどれが生き残っているか。真夏の例では低温が落ちている。相の変化も文字どおりには起きていない。残るのは、動きの消失と、それが本人の意思では解除できないという性質のほうです。意味の焦点が、温度から不動へ移動している。しかも移動先は不動一般ではなく、不随意の不動に限られる。自分で立ち止まった人物にこの動詞は使えません。
ところが、低温が完全に脱落しているとも言い切れません。背筋が冷える、血の気が引く、といった言い方が示すように、恐怖の身体感覚は日本語で温度の語彙と強く結びついています。だからこの動詞を持ち出すと、書いていない冷感が場面に薄く残る。同じく不動を表す「固まる」と比べれば差ははっきりしていて、場が固まったと言えば気まずさの側へ、場が凍りついたと言えば恐れの側へ傾く。硬直する、身がすくむ、といった語も不動を表しますが、それぞれ筋肉と体幹に焦点が寄っていて、温度の残響は持たない。温度成分は消えたのではなく、意味の前面から背後へ退いただけだと考えるほうが、実際の使い分けをよく説明します。
使役の形にすると、もうひとつの偏りが出てきます。この語は「〜を凍りつかせる」という形でよく使われますが、その主語の席に来るのは、たいてい意志を持たないものです。一言、沈黙、電話の音、届いた知らせ。人を主語に立てることもできますが、そのとき読者は、その人物が意図してそうしたとは受け取りません。場を凍りつかせた当人は、たいてい自分が何をしたのか分かっていない。原因の側にも意志が欠けている——不随意性は、止められた側だけでなく、止めた側にまで及んでいます。同じ不動を作り出す動詞でも「黙らせる」は事情が違い、あちらは意図した支配を表すので、主語には権限を持った人物が立ちます。どちらを選ぶかは、その場面に権力関係を書き込むかどうかの判断に直結します。
主語の側にも階層があります。水、指、表情、場、関係。物質から身体部位へ、身体部位から表出へ、表出から場へ、場から関係へと、順に外側へ拡張していく。この列で目を引くのは、どこにも断絶がないことです。隣り合う二つはいつも似ていて、両端だけが遠い。水と関係のあいだには何の共通点もないように見えるのに、途中を一段ずつ辿ると、どの一歩にも無理がない。意味の拡張は、飛躍ではなく歩幅の小さな連鎖として起きているらしい。そして拡張が進むほど、温度の残響は薄くなります。関係が凍りつく、まで来ると、そこにあるのは停止と持続だけです。
解除の側の語彙を並べると、写像の一方向性も見えてきます。物理的な凍結の反対は融解ですが、比喩の側で同じ対を作ろうとするとうまくいきません。場が溶ける、関係が溶ける——どちらもぎこちない。実際に使われるのは、ほぐれる、和らぐ、緩む、といった別系統の語です。張力の語彙が担当している。日本語は、停止へ向かう変化を氷の比喩で語り、そこから戻る変化を結び目の比喩で語っているわけです。行きと帰りで乗り物が違う。比喩の体系は左右対称にできていないので、一方の像を持ち出したからといって、反対方向まで同じ像で書ける保証はありません。場面を元へ戻すときに氷を引きずると、たいてい文が説明臭くなります。凍った空気がようやく溶けた、と書きたくなる誘惑は強いのですが、そこで読者が受け取るのは解除の事実だけで、解除の手触りは渡っていません。緩むほうの語彙が別に用意されているのは、たぶん理由のないことではない。
使い分けの目安は、そこから出てきます。この動詞を選ぶのは、不動を書きたいときではなく、不動に恐れの色をつけたいとき。恐れの含まれない場面——驚き、戸惑い、単なる気まずさ——に置くと、背後に残った温度が場面と噛み合わず、わずかに大げさになる。その「わずかに」は、読者が理由を指摘できないまま違和感として残る種類のものです。