「眩しいほどの白さ」と書いたとき、目は実際には眩んでいません。主張されているのは白さの度合いのほうで、眩しさはその度合いを測るための目盛りとして呼び出されているだけです。文の表面では前に立っているのに、意味の上では従属している。この逆転に気づくと、この形式を強調のためのものだと考えていたのが雑だったと分かります。強調しているのではなく、測っている。
意味論では、程度形容詞は対象を尺度上の値に写す関数として扱われます。「ほど」はその尺度に閾値を置き、別の述語が成立する点として指定する。「泣きたいほど嬉しい」なら、嬉しさの度合いが、泣きたくなる点を超えている、という構造になる。基準として呼ばれる述語は、事実である必要がありません。実際に泣いてはいない。反実仮想に近い形で、成立点だけが借りられています。
ところがここで自分の説明に穴が見つかります。「眩しいほどの光」なら、実際に眩しい。同じ形式が、被修飾語しだいで比喩にも事実の記述にもなる。とすれば曖昧さの出どころは「ほど」ではありません。基準の述語と被修飾語が同じ感覚領域に属しているかどうか——白さと眩しさはどちらも視覚の明度に関わるので近く、近いぶん比喩と実測の境が溶けます。感覚領域が遠ければ、読者は迷わず比喩として処理する。
もう一つ、尺度の型も関係していそうです。「眩しい」は上限を持たない相対的な程度形容詞で、どこまでも上がっていける。上限がないから、基準に据えても値が定まらず、閾値の位置は文脈まかせになります。対照的に「真っ白なほどの」が言いにくいのは、絶対的な上限に達した状態を表す語で、それ以上の比較の余地がないからでしょう。程度形容詞を相対的なものと絶対的なものに分ける区別は言語学で扱われていて、この言いにくさの差は、その区別と整合します。
否定を掛けると、測定装置だという見方の裏が取れます。「眩しいほどではない」と言われたとき、否定されているのは白さや光の存在ではなく、閾値に届いていないという一点だけです。対象そのものは残り、値だけが下げられる。強調語であれば否定は表現全体を打ち消すはずで、この振る舞いは尺度と閾値が独立して働いていることを示しています。近い働きをする「くらい」に入れ替えても大枠は変わりませんが、そちらのほうが基準の置き方が緩く、話し言葉寄りに聞こえる。同じ構造でも、目盛りの刻み方に差がある。
実務に引き寄せると、この形式は何を測っているかを先に決めておかないと空回りします。「眩しいほどの笑顔」と書いたとき、測られているのは明度なのか、好意の強さなのか、直視のしにくさなのか。決めないまま強度だけを上げると、読者の手元には強度の感触だけが残り、肝心の対象が残りません。逆に物差しが決まっていれば、この形式はきわめて経済的です。尺度と閾値と対象を、数語のうちに同時に置ける。強調の語を重ねるより少ない字数で、しかも読者に測り方を渡した状態で、度合いを伝えられる。