星が一度だけ光って、それきり暗くなったとする。それを煌めいたと言えるでしょうか。答えを出す前に、隣に例文を並べてみます。「稲妻が煌めいた」——読み返すと、どこか据わりが悪い。「稲妻が閃いた」なら何の抵抗もなく通る。単発の閃光を受け止める語は別に用意されていて、この語はそこを担当していないらしい。感覚の報告にすぎませんが、感覚が一致する例をいくつか集めると、単なる好みではなさそうだと分かってきます。
論理の言葉に置き換えるなら、この動詞は内部に量化を抱えています。光が生じる時点が複数ある、という条件が語義に組み込まれている。だから瞬間を切り取った写真より、時間の幅を持った映像に近い。「揺れる」「ざわめく」も同じ型で、いずれも一回では成立しません。動詞が指すのは個々の出来事ではなく、出来事の集まりが作るパターンのほうです。書き手が一語を選ぶだけで、文の中に時間の幅が確保される。
面倒が起きるのは否定を被せたときです。「煌めかなかった」は、一度も光らなかったのか、光ったけれど反復しなかったのか。否定が量化の外に来るか内に来るかで、二通りに読めます。会話ではこの二義性が問題になることはほとんどない。文脈が片方を潰してくれるからです。ところが文章に書き付けると、潰してくれるはずの文脈をこちらが用意しなければならない。書き手が固定しなければ、読者が勝手に固定します。しかも読者はどちらに固定したか自覚しないので、食い違いは表面化しないまま残る。
反復性が語義の一部なのか、状況から読み取られるだけの含みなのかも、試せます。含みなら打ち消せるはずです。「光ったが、煌めきはしなかった」と書いてみると、これは矛盾していない。むしろ何を言いたいのかが伝わってくる。とすると反復性は語義に固く埋め込まれた条件ではなく、標準的な読みとして先に立つだけのものかもしれない。判定を急がずに、両方の可能性を持ったまま先へ進みます。少なくとも、打ち消しに文が耐えるという事実は、この語の輪郭がこちらの想定より柔らかいことを示しています。
もうひとつ、前提の頑丈さも見ておきたい。「彼女の目が煌めくのをやめた」と書けば、以前は煌めいていたことが前提として運ばれます。この前提は否定文に埋め込んでも生き残る。「やめなかった」と書いても、以前煌めいていた事実は消えません。書かれていない過去を、否定の外側に置いたまま読者の頭に沈める——この機能は、回想を書かずに時間の厚みを作りたい場面で使えます。使えるということは、うっかり使ってしまえるということでもある。
ここで自分の観察に異議を唱えておきます。「煌めく才能」のような比喩用法には、点滅がありません。反復性は消えたのでしょうか。おそらく消えてはいない。移されている。才能は、機会が来るたびに現れる。時間軸上に散らばった複数の出現、という構造がそのまま抽象領域に持ち込まれていると考えると、辻褄が合います。とすれば、この語を選ぶことは、光が続く世界を前提として置くことに等しい。一度きりの、二度と戻らない光を書こうとしている場面でこれを使うと、文のほうが勝手に時間を伸ばして、その一回性を薄めてしまいます。