まず分解してみます。「目も眩むばかりの輝き」を、ふつうの文に開き直そうとすると、途中でつまずく。「輝きは目も眩むばかりだ」までは行けます。では「輝きが目も眩む」はどうか。これは落ちる。眩むのは目であって、輝きではないからです。名詞句の内側では平然と成立していた関係が、文に開いた途端に壊れる。この壊れ方に、この句の構造がそのまま出ています。
日本語の連体修飾には、修飾節の中に被修飾名詞の座席があるものと、ないものがあります。「彼が読んだ本」は「彼が本を読んだ」に戻せる。「本」は「読む」の項で、修飾節の中に空席がある。ところが「目も眩む輝き」の「輝き」は、「眩む」のどの項でもない。眩む主体は目です。後者は外の関係と呼ばれ、修飾節と名詞のつながりは統語ではなく意味的な関連づけに委ねられます。強い輝きがあり、その結果として目が眩む——この因果を、統語構造はどこにも明示しないまま、節を名詞に貼り付けている。読者は貼り付けられた二つのものの間を、自力で埋めながら読んでいることになります。
助詞にも目を止めておきたい。「目が眩むばかりの」も言えるはずなのに、定着しているのは「も」の形です。取り立ての「も」は本来、同類が他にもあることを含む。しかしここで「目のほかに何が眩むのか」と問うても、答えは出ません。極端な事態を述べる文脈に現れる「も」——「音もしない」「一銭もない」——と同じ振る舞いで、同類の含みは薄れ、程度が極端であることの標識として働いている。助詞が本来の機能を失いながら、失った分だけ別の役割を得ている状態です。
慣用句が統語的に凍りつく度合いには、段階があります。この句はまだ半分しか凍っていない。時制は動かせるし(目も眩んだ)、古い形も生きている(目も眩まんばかりの)、「ばかり」と「ような」の交替も効く。しかし主体は替えられず、他の器官を入れると壊れます。可動域が部分的に残っているというのは、完全な一語になりきっていない証拠です。ここで自分の観察に異議を出しておくと、可動域があることと、動かして自然に読まれることは別問題でもある。文法的に許される変形が、読者にとって手作りに見えてしまう場合はある。凍り方の測定は、規則の話であると同時に、読者の慣れの話です。
交替が効くと書きましたが、二つの形が同じものだというわけではありません。連体形に付く「ばかり」は程度の際を示し、それ以上はないという限度を含みます。未然形に「ん」を挟んだ古い形のほうは、まだ起きていないことが今にも起きそうだという意味で、事態そのものは実現していない。溢れんばかり、泣かんばかり、と並べれば、この形が一貫して未遂を指していることが見えてきます。同じ助詞を使いながら、片方は達した程度を、片方は達しかけた寸前を指す。現代語で標準になっているのは前者のほうですが、後者が古風な調子とともに生き残っているために、この句には限度と未遂の気配が薄く混ざります。書き手が古い形をわざわざ選んだとき、動いているのは文体だけではありません。光がすでに極まっているのか、極まる直前で止まっているのか、事態の段階までが入れ替わっています。
被修飾名詞の側も見ておきます。輝きは動詞「輝く」の連用形から作られた名詞で、内部に出来事の時間を抱えています。同じ位置に「光」を入れると、句は成立するのに手ざわりが変わる。光は物として一点にあり、輝きは続いている過程です。目が眩むという事態のほうも幅を持った出来事ですから、時間を持つもの同士が並んだときのほうが、意味的な橋は架けやすくなります。連用形名詞は動詞の記憶を残していて、格を取り戻しかけることもある。「刃の輝き」「彼の輝き」のように主体や所有を前に繋げられるのは、その名残です。ところがこの句では、名詞が持てたはずの席を、長い修飾節が先に占めてしまっている。
実務の側に降ろすと、この句はとにかく重い。名詞句の内部に主述を一組抱え込み、その上に程度の標識を挟んで、ようやく「輝き」に着地する。読者は九拍のあいだ、何の話なのかを保留したまま進むことになります。短い文の中に置けば、その保留が緊張として働く。長い文の中に、他の修飾語と並べて置けば、渋滞にしかならない。地の文のリズムを測るとき、この句は一語として数えず、小さな節として数えたほうが実態に合います。それだけの重さを払う価値がある光なのかどうかは、置く前に一度だけ考えておくといい。