古語辞典で「まばゆし」を引くと、光が強くて目を開けていられない、という語義の隣に、恥ずかしくてまともに見られない、という語義が並んでいます。相手が立派すぎて気が引ける、という方向の用例も載る。古典の散文でこの語が対人的な感情を担っていたことは、辞書の記述として確かめられる範囲の事実です。最初にこれを見たとき、光の語と羞恥の語が同じ見出しに同居していることに引っかかりました。どちらが先だったのか、辞書は教えてくれません。
現代の「眩い」に、その羞恥の語義は残っていません。使われるのはほぼ物理的な明るさに限られる。意味の側は落ちた、と言ってよさそうです。では何が残ったのか。形が残った。口語の形容詞は「眩しい」で、こちらが日常の担当になり、「眩い」のほうは文語形容詞の姿をとどめたまま現代文に居座っている。落ちたものと残ったものが、意味と形態できれいに分かれている。
分布を見ると、居座り方に偏りがあります。「眩しいです」は言えるのに「眩いです」は言いにくい。終止で使うと文が急に硬くなる一方、「眩い光」のような連体用法は抵抗なく通る。つまりこの語は、文の骨格を担う位置からは退いて、装飾を担う位置にだけ残っている。文語形は意味で生き延びるのではなく、分布で生き延びる——使える場所が狭まることが、そのまま特別さとして機能する。
試しに台詞へ移してみると、偏りはもっとはっきりします。地の文なら難なく収まるこの語を、登場人物に言わせようとすると、言える人物と言えない人物がすぐ分かれる。年齢や職業というより、その人物が普段どの語彙層で話しているかで決まります。口語の語彙だけで喋ってきた人物が一語だけこれを使うと、そこで人物像が揺れる。逆に、揺らすためにわざと使う手もある。語の来歴は、地の文では文体の高さとして働き、台詞では人物の履歴として働く。同じ偏りが、置く場所によって別の顔を見せます。
背景としては、言文一致以降の散文が口語の骨格に文語の語彙を点在させる形で書かれてきた、という事情が関わっていると考えられます。文語は廃れて消えたのではなく、格式を担当する層として口語文の内部に取り込まれた。現代の小説の地の文も、基本的にはその配分の上に立っています。日常語だけで書かれた文章が平坦に感じられるのは、この層が欠けているからだ、という説明もできそうです。
もっとも、この見立てには反証を用意しておくべきでしょう。文語の残り香は、置きどころを誤ると格式ではなく古臭さに転じます。会話が完全に現代の口語で、地の文も口語で走っているところに「眩い」を一語だけ落とすと、そこだけ浮く。浮かせたい箇所なら正解で、そうでなければ事故になる。意味が抜けて形だけになった語は、意味を運ぶ荷ではなく、文の高度を上げる荷を引き受けている。羞恥の語義を手放した代わりに、この語は別の仕事を得たわけです。何を書くかよりも、どの高さから書くかを決める語として。